◆6月29日(月) 旧東海道・小田原宿を歩く(終了しました)

小田原は戦国時代、後北条氏の城下町として発展しました。江戸時代には東海道の宿場として、また、江戸の西側を守備する防衛拠点として大いに栄えました。

 小田原宿は江戸方を酒匂川に、京方を箱根に阻まれており、東海道を旅する人たちはこの地で旅支度を整えるために一泊しました。天保期には本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠が95軒あり、人口が5,400人と神奈川県下随一の宿場でした。

 今日は小田原を歩きます。

 

小田原駅前、北条ポケットパークから出発しました。小田原の歴史は、伊豆韮山にいた伊勢新九郎(北条早雲)が明応4年(1495)、大森氏を攻め城を奪い取ってから始まります。以後氏綱、氏康、氏政、氏直まで5代百年にわたって北条氏が治めました。

 

 5代続いた北条氏は天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めによってその幕を閉じました。北条氏は小田原の周囲を約9㎞にわたって城郭(総構)を築き、籠城作戦を取りますが、秀吉の20数万の圧倒的な軍事力と、一夜にして城を築く技術力に屈します。

 蓮上院の土塁は低地部分に築かれた外郭土塁の一部で、渋取川を利用した水堀も張り巡らされていました。

 

 江戸方の見附跡です。この場所は江戸への入り口に当たり、秀吉の小田原攻めの時には山王川を挟んで徳川家康と対峙した場所です。

 江戸から20番目の一里塚が併設されています。

 

北条氏康が元亀2年(1571)に亡くなりますが、その死を老孤のたたりと信じた氏政が、狐の霊を慰めるために小田原城内に祠を立てたのが始まりと伝わります。

 鳥居の右側に「蛙石」と呼ばれる石があり、小田原に異変があるときには必ず鳴き声を発するといわれています。北条氏の滅亡の際には夜昼となく盛んに泣いたという伝説があります。

 

小田原にあった4軒の本陣の一つ、清水金左衛門本陣の跡地です。尾張徳川家や島津家などの定宿で、建坪240坪、部屋数20余室の大旅館でした。明治になって隣にあった小清水屋伊兵衛脇本陣と統合され、古清水旅館となりました。明治天皇が明治元年(1868)の東幸の際、宿泊された上段の間があった場所には「明治天皇行在所」の碑が建っています。

 

古清水旅館の2階には本陣の資料館があり、時間があればゆっくり見学したいところです。今日は特別に屋上から小田原城と石垣山一夜城の位置を確認させていただきました。源頼朝が挙兵した石橋山の古戦場も望めます。

 

 曹洞宗の寺院、徳常院です。こちらの境内に祀られている「福徳延命地蔵尊」は露座の大仏と呼ばれています。江戸時代に八百屋お七の恋人、吉三郎がお七の菩提を弔うために造ったといわれています。元は箱根の賽の河原にありましたが、江戸へ運ぶ途中、この地で動かなくなりこのお寺に安置されました。関東大震災や太平洋戦争時の金属回収からも免れ、現在に至ります。

 

元の滅亡とともに日本に帰化した外郎(ういろう)は医術と占いに優れ、家伝の秘薬「透頂香(とうちんこう)」は朝廷に珍重されました。また外国の使節を接待するための菓子「ういろう」も作りました。

 明応4年(1495)、北条早雲の招きで小田原にやってきます。八つ棟造りで有名な建物は関東大震災で壊れますが、平成9年(1997)に再建されました。

 

透頂香は小粒の丸薬で、胃腸の痛みや喉の痛みに効果があるとされます。二代目市川團十郎は外郎の薬で病気が治ったことに感謝し、歌舞伎十八番「外郎売」を創作し上演しました。

 

 明治22年(1889)、東海道線が神戸まで延伸されますが、当時は小田原、熱海へは通じていませんでした。そこで小田原から保養地熱海へ豆相人車鉄道が敷かれました。ここはその起点となった小田原駅の跡です。明治41年(1908)には軽便鉄道に転換し、約3時間で結ばれました。

 

人車鉄道は小田原・熱海間25.6㎞を約4時間で走りました。1車両に客を6人ほど乗せ、車夫が2、3人で押します。急坂になると客も降り、一緒に押すというのどかな乗り物でした。6両編成で1日に6往復したそうです。

 

日蓮宗の寺院、大久寺にある大久保家の墓所です。大久保氏は譜代大名で、忠世(ただよ)は秀吉の小田原攻めの時、徳川家康に参陣し、その功績で江戸時代には4万5千石の小田原城主となりました。2代の忠隣(ただちか)のときに大久保長安事件で失脚しますが、その後復活し、幕末まで幕府の重職を歴任します。中央が忠世の墓、右が忠隣の墓です。

 

 板橋見附は上方の出入り口です。小田原宿は江戸方見附からこの板橋見附まで18町(約2㎞)あります。この近辺は小田原城外郭の西側に位置し、番所や鉄砲組の御組長屋が置かれて警護が厳重でした。

 箱根越えの旅人は朝まだ暗いうちに宿場を発つため、持ち運びに便利な小田原提灯が考案されました。

 小田原提灯は上下のふたが大雄山最乗寺の霊木で作られおり道中の魔除けになる、携帯に便利、雨風に強いという3つの特長があり旅人に人気がありました。小田原の甚左衛門が考案したと伝わります。

 

小田原用水は北条氏康が小田原城下に引いた日本最古の上水道といわれています。早川上流の上板橋に取水口があり、江戸口の見附あたりまで引かれていました。小田原用水は、木樋を使って各戸まで上水を引き、木炭や砂でろ過して飲用水として使いました。

 北条氏はこのほかにも検地を行ったり、虎の印鑑を使用して文書の大量発給を可能にするなど行政能力に長けていました。

 

 創立年月は不詳ですが板橋と山角町の氏神です。三浦一族の末裔三浦荒次郎義意が祀られています。永正15年(1518)新井城で三浦道寸と北条早雲が戦い、三浦一族は滅亡しました。義意は道寸の息子で、新井城の戦いのときに自刃しますが、首級が小田原まで飛んで、この地の古松に掛かります。そして、通りかかる人を3年間脅し続けたそうです。この松の下に義意の霊を祀る祠を建てたのが居神神社です。

 

 日露戦争でロシアのバルチック艦隊を破った時の参謀、秋山真之の終焉の地、対潮閣跡です。山下汽船の創業者山下亀三郎の別邸です。秋山真之と山下亀三郎は同郷の友人でした。

 小田原には伊藤博文、山県有朋などの政治家や益田孝、松永安左エ門など財界人の旧居が多くありました。

 

北条氏政と弟氏照の墓所が今回の最終訪問地です。氏政は北条4代の小田原領主で、氏照は滝山城や八王子城を治めていました。秀吉の小田原攻めで敗れたときに自刃させられました。5代の氏直は高野山へ追放され、北条5代百年の歴史が終わります。氏政と氏照の墓は、その後小田原城主になった稲葉氏によって整備されました。

 

 北条氏によって開かれ、その後、江戸時代の城下町としてまた宿場町としても栄えた小田原は、500年の歴史に彩られた魅力溢れる街でした。