◆3月28日(土) 旧東海道・平塚宿を歩く(終了しました)

平塚宿は旧東海道、江戸から7番目の宿場として慶長6年(1601)に設置されました。古代の相模国府跡や家康が鷹狩に使用した御殿跡なども残る、相模の国の中心地でした。この平塚八幡宮は相模国の第五の宮で、源頼朝は建久3年(1192)に政子の安産を祈願して神馬を奉納したと伝わります。

 

国の登録有形文化財です。元は明治45年(1912)に日本海軍とイギリス企業との合弁で設立された、火薬製造会社の支配人の執務室でした。後にこの建物は海軍の将校クラブとして使用されました。戦後、横浜ゴムに払い下げられました。

 下見板張りの壁面、ベイウインドウ、均整の取れた塔、コロニアルスタイルのベランダが特徴的です。平成16年(2004)、横浜ゴムから平塚市が譲り受けました。

 昭和30年(1955)の秋季国体の時には昭和天皇もこちらで休息されました。

 

 芝居や講談で有名な怪談「番町皿屋敷」の主人公お菊の供養塔です。お菊は奉公先である青山主膳の家宝の皿をなくしたとして、手討ちにされ、それを恨んで化けて出る、というお話です。お菊はこの平塚の役人真壁源右衛門の娘で、以前はこの地に真壁家の墓地があったため、供養塔が建てられました。

 怪談「番町皿屋敷」に類した話は日本全国に伝承されています。

 

 かつてこの地に江戸方見附がありました。当時の写真を基に見附を再現しています。長さ3.6m、幅1.5m、高さ1.6mの石垣で、上部に矢来が組まれています。見附は宿場に不審な人物や物資が入り込まないように見張るものです。

 平塚宿はこの江戸方見附から京方見附まで約1.5㎞の間に200軒の町並みが続きました。その後加宿により2.1㎞となったそうです。(文政8年地誌取調書上帳)

 

 崇善公民館です。かつて平塚小学校があった場所です。明治13年(1880)に平塚小学校が建てられましたが、学校の敷地が5400坪、生徒数が4000名という日本最大の小学校でした。昭和20年(1945)の空襲で理科室を残して全焼してしまいます。左の建物が当時の理科室です。右側の建物は昭和25年(1950)に建てられた平塚市議事堂で、現在は崇善公民館として利用されています。

 

平塚宿の本陣は代々加藤七郎兵衛が勤めました。建物は総欅造りで、間口が約30m、奥行68m、163坪あったそうです。脇本陣は山本安兵衛宅で、本陣の補助的な役割でした。旅人は戸塚宿と小田原宿で泊まる場合が多く、平塚宿では休憩をとる場合が多かったようです。

 

平塚宿西組問屋場跡です。平塚宿には東組問屋場もあり、二軒の問屋場は10日交代で業務を行いました。平塚宿と隣の大磯宿の距離は27町(約3㎞)と近いため、大量輸送の際には、両宿場が協力して小田原や藤沢など隣の宿場まで荷物を運びました。

 

 江戸時代に編纂された「相模国風土記稿」に、桓武天皇の孫、高見王の娘政子が逝去したため棺をこの地に埋葬したとあります。その塚が長い年月を経て上部が平になったことから平塚と呼ばれるようになりました。高見王の子、高望王は「平」姓を与えられ東国に下って坂東八平氏として活躍したとも伝わります。

 

 建久2年(1191)源頼朝が馬入川の橋供養をし、完成後、春日神社を創建しました。平塚本宿の鎮守で、古くは黒部宮と言います。元は海岸寄りにあったそうですが津波で破損したため、現在地に遷座したとあります。

 

 歌舞伎「加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」の義女お初のモデルとなった、「松田たつ」の墓です。たつは荻野山中藩大久保長門守の江戸屋敷に奉公していましたが、女主人が侮辱を受け、自害します。たつはその仇を討つというお話で、人形浄瑠璃として初演され、歌舞伎にもなって人気を博したそうです。

 

 古花水橋の付近に京方見附があったといわれています。初代広重の浮世絵にある情景とよく似ています。後方に見えるのが高麗山です。その右側に富士山と大山が聳えますが、今は看板の陰になっています。この辺りは宝永4年(1707)の富士山の大噴火によって花水川が土砂や降灰で埋まり、それまでの川の位置を直線状に大きく付け替えました。この先は大磯へ入ります。

 

神功皇后が三韓征伐に勝利した際に高麗の神を勧請した高麗権現社と、717年に僧行基がこの地を訪れ千手観音を本地仏として神仏習合の高麗寺を創建したと伝わります。江戸時代には徳川家康より寺領100石を賜り、東照権現を併せ祀ります。参勤交代の諸大名は下馬して参詣しました。

 

 鎌倉時代の大磯の中心はこの化粧坂あたりであったといわれています。その入り口にある化粧井戸です。曽我物語で有名な虎御前はこの井戸の水を汲み、化粧に使ったといわれます。虎御前は三大仇討物語の一つ、曽我物語の曽我十郎の恋人でしたが、実在の人物かどうかはわかりません。

 

化粧坂から一号線と分かれ、旧東海道へ入ります。この辺りはまだ旧東海道の趣を残しています。左右の大きな松並木は旅人に絶好の木陰を提供したことでしょう。木陰でお握りをほおばりながら一休みしたことでしょう。

 

 国の登録有形文化財です。大磯駅前の三角形の敷地に建てられているため、三角屋敷とも呼ばれています。貿易商木下建平氏の別邸として、大正元年(1912)に建てられた、日本初のツーバイフォー工法です。切妻造りでスレート葺き、左右の2か所にドーマー窓を設け、各室にベイウインドウを配置しています。現在はイタリアンレストランとして営業しています。