◆12月5日(土)まんだら堂・名越切通(終了しました)

鎌倉は三方を山に囲まれ、前方は海で、要害の地といわれます。外部との往来は切通と呼ばれる山道でした。切通は交通路としてだけでなく防御施設の役目も果たしていました。七つの切通のなかで最も当時の雰囲気が残る名越の切通を歩き、まんだら堂や日蓮ゆかりの法性寺、坂東三十三観音霊場二番札所岩殿寺、逗子の地名の由来となった延命寺などを観音霊場を巡る巡礼のように訪ねます。

 

名越切通の地名は「吾妻鏡」の天福元年(1233)八月十八日条に、「名越坂」とあるのが最初で、鎌倉七口の中でも、比較的早期に整備されたと考えられています。鎌倉と三浦半島、さらには房総半島を結ぶ要路であり、執権北条氏の最大のライバルである三浦氏の本拠地を結ぶもので、重要視されました。

 道幅が最も狭い部分では90cmしかなく、人ひとりがやっと通れる程度です。防衛のためといわれていましたが、最近の調査では、地震などによる岩の崩落が原因であることがわかってきました。

 

 まんだら堂やぐら群です。「やぐら」は四角い横穴を掘り、内部に五輪塔などを建て火葬骨を納めた納骨施設です。鎌倉は平地が少ないため、上級武士や僧侶はやぐらに葬られました。

 まんだら堂やぐら群は、鎌倉時代後半から南北朝時代の頃のものと考えられており、150穴以上のやぐらが確認されています。

 

 「まんだらどう」の初出は文禄3年(1594)の検地帳ですが、畑の名前として記されています。平場の部分には建物の柱穴跡が発見されていますが、史料が無く、まんだら堂がどのような用途の建物であったのかは不明です。その他、火葬跡や石敷遺構などが発見されています。

 

石廟です。内部に火葬骨を納めた蔵骨壺が納められていたと考えられます。鎌倉時代から南北朝時代にかけての石製建造物ですが、他には例がない珍しいものです。

 

凝灰岩の岩肌を、人工的に垂直に切り落としたもので、「大切岸(おおきりぎし)」と呼ばれています。延長約800mに達し、遠くからは一枚の大きな岩肌に見えます。北条氏のライバルであった三浦氏の侵略に備え、鎌倉防衛のために造られたものといわれてきましたが、平成14年の発掘調査により、建築・土木用に石材を切り出した結果であると判明しましたが、防衛目的にも配慮した可能性もあります。

 

猿畠山法性寺(えんぱくさんほっしょうじ)祖師堂です。文応元年(1260)、日蓮上人は松葉ヶ谷(まつばがやつ)の草庵が焼き討ちされますが、3匹の白猿によって祖師堂左にある岩窟に導かれ、難を逃れました。 岩窟には五輪塔が祀られています。

 この祖師堂は開山が日朗、開基は朗慶です。長興山妙本寺と長栄山本門寺の両寺の奥の院に位置付けられています。

 

法性寺山門へ下りてきました。山門には「猿畠山」の扁額が掲げられていますが、2匹の白猿が両側から支えています。これは日蓮上人を導いた白猿に因んだものですが、猿は山王権現の使いであるともいわれています。

 

法性寺から10分ほどのところに岩殿寺があります。寺伝では、養老4年(720)、大和長谷寺開山の徳道上人と行基上人の開創と伝わる古刹です。「吾妻鏡」には源頼朝、北条政子、源実朝らの参詣があったことが記されています。実朝は杉本寺から岩殿寺を回っており、坂東三十三観音の二番札所です。山門前には三十三観音霊場の石碑が、一番から順に並んでいます。

 

石段を上ると、弘法大師が爪で掘ったと伝わる爪掘り地蔵がありました。爪の病気に悩む人が祈願するお地蔵様です。

 境内には、明治の文豪である泉鏡花が寄進した「鏡花の池」があります。鏡花は健康を害して、逗子で3年間静養しましたが、その折、しばしば岩殿寺を訪れていたそうです。

 

寺伝によれば、天平年間に行基上人が自作の延命地蔵菩薩像を安置したのが始まり、といわれます。平安時代に弘法大師が延命地蔵の厨子を設けたことから、この地を逗子と呼ぶようになったそうです。

 

延命寺は鎌倉時代には三浦氏の祈願寺でした。三浦道寸は永正13年(1516)、北条早雲に攻められ新井城で3年間籠城戦を戦いますが、敗れ、鎌倉時代から続く名門三浦氏は滅亡します。これに先立ち、住吉城を守っていた道寸の弟・道香は、住吉城落城後、この地で自害したそうです。道香とその家臣の墓と伝わる7基の宝篋印塔が建っています。

 

承久3年(1221)、後鳥羽上皇は鎌倉幕府倒幕のため挙兵しました(承久の変)が敗れ、隠岐へ配流となりました。三浦義村の弟、胤義(たねよし)は上皇方につき、兄義村と戦って敗れ、自害しました。胤義の幼い遺児4人は田越川畔で首を斬られたといいます。この碑は大正12年に地元の有志によって建てられました。

 

祭神は応神天皇。創建の年月は明らかではないが、江戸時代には延命寺が別当として管理していたそうです。

 亀岡の名称は、なだらかな岡で亀の背中のようであったことから、鎌倉の鶴岡八幡宮に対して、亀岡八幡宮と呼ばれるようになりました。境内には、寛文11年(1671)と天保3年(1832)銘の笠塔型庚申塔があります。寛文11年銘の庚申塔は、青面金剛の庚申塔としては鎌倉・逗子市内で最古といわれています。