◆10月15日(木)旧東海道・箱根宿を歩く(終了しました)

 いよいよ今回の「箱根宿を歩く」で、昨年から始まった神奈川県下の旧東海道を歩くツアーは最後です。今日は絶好の日和の中、石畳と杉並木の箱根路を歩きます。

 笈平(おいのたいら)から出発です。文暦元(1234)年8月16日、親鸞上人は20年にわたる関東教化を終え帰洛の途中、この地で笈を下して一休みされた時、弟子の性信坊と蓮位坊に向かって「師弟打ち連れて上洛した後は誰が東国の門徒を導くのか心配だから、これから立ち戻って教化してもらいたい」と話し、悲しい別れをしました。

 

 箱根八里は急坂を超えるため、坂の上下などに往来の人馬が一服できる甘酒茶屋が設置されていました。箱根東坂には9か所、13軒の甘酒茶屋があったそうです。現在営業しているのは1軒だけとなっていますが、昔の風情を残す建物と「甘酒」や「力餅」などが今も疲れを癒してくれます。この甘酒茶屋には、赤穂浪士の神崎与五郎(大高源吾という説も)が馬方とトラブルになりますが、大事の前ということでじっと我慢して詫び証文を書いたという逸話が残ります。

 

 甘酒茶屋から少し上ったところにある於玉坂(おたまざか)です。海抜770mにあります。お玉という少女が箱根の関所を破ったとして処刑された場所がこの坂の辺りだったため、その名がつけられたといわれています。

 お玉は伊豆の生まれで、江戸へ奉公に出ていましたが、何かの原因で矢も楯もたまらず故郷へ帰ろうとして関所手形も持たずに、関所の裏山を越えようとしましたが捕えられ処刑されてしまいました。この近くには、お玉の首を洗ったというお玉が池もあります。

 

 江戸時代の初め、それまで尾根伝いを通っていた湯坂道に替わり、須雲川に沿った谷間の道が東海道として整備されました。整備した当初は、箱根に群生するハコネダケという細竹を敷き詰めていましたが、費用と労力がかかることから、延宝8(1680)年、石を敷いた石畳の道になりました。その後、文久3(1863)年、14代将軍徳川家茂が上洛する際、全面的に改修されました。

 この箱根旧街道は昭和35(1960)年、国の史跡に指定されています。

 

 二子山展望広場の先、休憩広場にやってきました。しばし、絶景を眺めながらの休憩です。

 二子山は、小田原方面から見るとちょうどお椀を二つ並べて伏せたように見えることから二子山と呼ばれていますが、この広場からは四つの瘤を持った山に見えるので「表二子に裏四子」と呼ばれています。

 この山は江戸時代から二子石という安山岩を産出する石切り場で、箱根の石畳に使われた石も大部分はここから採取したものといわれています。

 

 「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」の歌が刻まれています。箱根八里とは、小田原宿から箱根宿までの四里と箱根宿から三島宿までの四里を指します。箱根八里と大井川はともに東海道の難所として旅人たちに知られていました。

 

 この碑は大正11(1922)年イギリス人貿易商で芦ノ湖に別荘を持っていたバーニーが、箱根を愛し箱根の美しさを伝えたケンペルの言葉を引用して、箱根の自然の大切さと人々の友情のお礼として建てたものです。

 ケンペルは、元禄3(1690)年オランダ商館の医師として来日したドイツ人で、2年間の滞在中に二度商館長の江戸参府に随行しました。その時に観察した芦ノ湖の魚類や草木、箱根の美しさなどを「日本誌」に残し、世界に日本の文化や自然を紹介しました。

 

宇治川の先陣争いで名高い梶原景季は、ある年箱根を通りかかったとき、何者かに襲われました。当時弁舌巧みでたびたび人を陥れた平景時と間違われたらしいのです。幸いにも傍らにあった地蔵が身代わりになって、何とか命は助かりました。それ以来、この地蔵を景季の身代わり地蔵と呼んだとのことです。地蔵の右肩から胸にかけて大きな割れ目があります。

 

この場所は、地蔵信仰の霊地として、江戸時代東海道を旅する人たちの信仰を集めたところです。多くの石仏・石塔が湖畔に並んで立っていましたが、明治の廃仏毀釈によってかなりの石仏が失われたといいます。かつての箱根山は東国と西国を分ける境の山、いわば地の果て「境界」とされていました。さらに噴煙を上げ、時には霧が立ち込める地はまさにこの世の果てを思わせる荒涼とした景色であったことから、死者たちが集まる賽の河原があると信じられ、死者たちを救うといわれる地蔵菩薩を祀っていたものと思われます。

 

低温・高湿度で雨の多い箱根では松がうまく育たないので、代わりに杉が植えられていました。樹齢は最高で350年ということです。現在でも芦ノ湖畔を中心に420本の並木が残っていますが、かつてはもっとたくさんの杉並木がありました。明治37(1904)年に新道を工事する際に松と杉を合わせて、約1000本の並木を伐採、売却して工事費の足しにしたそうです。

 東海道の並木はその美しい景観のほか、街道を歩く人の道しるべ、日差しや風雨から身を守る日除け、風除け、旅人の休息場所など多くの機能を果たしてきました。

 

県立恩賜箱根公園の前身は、明治19(1886)年に造られた箱根離宮(函根塔ヶ島離宮)とその庭園です。

昭和21(1946)年神奈川県に下賜されました。

 孝明天皇第二皇子睦仁親王は慶応3(1867)年、天皇に即位され、明治元(1868)年9月20日京都を発ち東京へ向かわれました。天皇が箱根を越えられたのは有史以来のことでした。天皇は箱根連山の男性美に満ちた大自然を非常にお喜びになられ、後に建てられた箱根離宮もこの感激があってのことと伝えられています。

 

 恩賜公園の駐車場南側の箱根八里の歌碑。明治34(1904)年、作詞 鳥居忱(まこと)、作曲 滝廉太郎


 

 箱根関所は東西に江戸口御門、上方御門で仕切られ、門の中の芦ノ湖寄りには手形などを改める大番所、山寄りには足軽番所がありました。

 この時代、旅に出る場合は「往来手形」と「関所手形」が必要でした。往来手形は身分証明書のようなもので、百姓、町人の場合は庄屋・名主・檀那寺からもらい、藩士の場合は留守居役が発行していました。箱根関所では「出女」を厳しく取り締まっていて、関所手形を女子がもらう場合は煩雑な手続きが必要でした。また関所には女性を調べる「人見女」が置かれ、厳重に取り調べました。この箱根関所も明治2(1869)年に歴史的役目を終え、廃止されました。

 

箱根関所の上方口御門を出たところに箱根宿がありました。元和4(1618)年に芦ノ湖畔の原野を開墾し、小田原宿と三島宿から人々を集めて設置しました。現在でも小田原町・三島町という字名が残っています。箱根八里のちょうど中間地点にあり、旅人や馬の休憩場所となりました。江戸から京へ向かう旅人は3日目の昼頃宿場に到着、昼食を食べて三島へ向かうという昼休みの場所でもありました。東海道五十三次のうち、浜松宿とならんで最多の本陣軒数(6軒)を持つことも箱根宿の特徴です。