◆7月15日(水)横浜四塔と馬車道―開港横浜初めて物語(終了しました)

1853年、ペリーの来航によって江戸時代は終焉を迎え、日本の近代が始まります。横浜は開港の地として西洋人が行き交い、見たことのないような物が現れ、見るもの全てが新鮮な驚きに満ち溢れていました。

 今日は今も横浜に残る文明開化の面影を求めて、関内駅から馬車道へと歩きます。

 

横浜公園は日本人も利用できる日本初の洋風公園です。日本に灯台を建設するためにイギリスから招かれたリチャード・ブラントンが設計しました。日本人と外国人の双方が利用できるため「彼我(ひが)公園」と呼ばれました。クリケット場なども備えていたそうです。この場所には元々港崎遊郭がありましたが1856年(慶応2)の横浜大火で焼け、その跡地を公園としました。今でも遊郭の跡が保存されています。

 

 外国人居留地と日本人街の中間に造成された日本大通りもブラントンの設計です。横浜大火後に、防火帯として設けられ、道路幅が36m、両側に歩道が6m、その外側に街路樹と歩道が3m確保されています。街路樹は燃えにくいようにイチョウが植えられました。

 

現在の神奈川県庁はキングの塔と呼ばれて親しまれていますが、県庁として4代目の建物になります。1923年の関東大震災後に建てられました。デザインコンペで小尾嘉郎の案が採用されましたが、五重塔をイメージした塔が屋上に据えられ、海上の船舶からもランドマークとして見えるように設計されています。塔の高さは49m、スクラッチタイルとテラコッタが特徴的な帝冠様式の近代建築です。

 

県庁の屋上からの眺めです。これから向かうクイーンの塔(横浜税関)が良く見えます。

 

 こちらからはジャックの塔(横浜市開港記念会館)が見えます。キングの塔、クイーンの塔、ジャックの塔を横浜三塔と呼び、毎年3月10日は「三塔の日」に定められています。

 

 この税関は3代目に当たります。当初の税関は現在の県庁の位置にあり、リチャード・P・ブリジェンスの設計によるものでした。初代の税関は1883年(明治16)、県庁に譲渡され、税関は象の鼻地区に移転しました。中央に六角形の塔屋を持つ建物でしたが、関東大震災で焼失、現在の税関は1934年(昭和9)に再建されました。クイーンの塔の愛称を持つ建物は高さが約51mで、三塔の中では一番高い建物になっています。

 

 この地は1859年(安政6)横浜が開港される時に、町会所が設置された場所でした。運上所のわきで利便性がよかったことと思われます。また横浜商工会議所発祥の地でもあり、東京美術学校を創設した岡倉天心誕生の地でもあります。

 1909年(明治42)、横浜の開港50周年を記念して設計コンペが行われ、1917年(大正6)に開港記念会館として竣工しました。塔の高さは36mあります。

国の重要文化財で、中区の公会堂として利用されています。

 

 キング、クイーン、ジャックの次に訪れたのがエースのドームと呼ばれる神奈川県立歴史博物館です。この建物は、元横浜正金銀行の建物を使用しています。横浜正金銀行は、開港以降貿易で必要となる金融や決済を行うために設立された特殊な銀行です。その設立には初代頭取となる中村道太や福沢諭吉、大隈重信など明治の開港に寄与した錚々たる人物が関わっており、横浜の貿易に大きく貢献しました。

 1904年(明治37年)に竣工しました。1967年(昭和42)神奈川県立博物館へ、1995年(平成7)からは県立歴史博物館として使用されています。

 

設計は、横浜赤レンガ倉庫や日本橋の設計で有名な妻木頼黄(つまき よりなか)によるもので、ネオバロック様式の西洋建築です。国指定の重要文化財、国指定史跡です。地上3階、地下1階の建物の」外壁には花崗岩と安山岩が使われ、このドームの先端までは約36mあります。ドームの中は空洞になっています。この日は地下にある金庫室まで観覧させていただきました。

 

 これから馬車道を歩きます。馬車道は1867年(慶応3)に開通しました。万国橋から関門のある吉田橋まで18mの道幅で一直線です。本町通り、弁天通りと同様、外国人へみやげ物を売る店が多く並んでいました。

 

 当時走っていた馬車を復元しました。毎年11月の馬車道祭りの際には、馬車に馬を繋いで走ります。1867年(慶応3)コブ馬車会社が横浜と東京を結ぶ乗合馬車を始めました。1869年(明治2)には日本人が東京・横浜間の乗合馬車を始めます。成駒屋と名付け、吉田橋のそばに馬車発着所を作って、日本橋まで馬車を走らせました。これが日本人による初めての乗合馬車です。2頭引き6人乗りで東京・横浜間を4時間で走ったそうです。

 

1869年(明治2)、早矢仕有的(はやし ゆうてき)が横浜新浜町に書店球屋(まるや)を開業し、日本で初の洋書販売を行います。翌年には日本橋に丸善を出店しました。後に弁天通4丁目に移転し、図のような書店を開きます。ヘボン博士の「和英語林集成第三版」は丸善に著作権2000ドルで譲渡されました。

 社員の福利厚生制度が、わが国初の生命保険へと発展したといわれています。また、ハヤシライスは早矢仕が考案したともいわれます。

 

下岡蓮杖は下田で生まれます。ある時オランダ渡りの銀板写真に興味を持ち、開国後着任したアメリカ総領事ハリスの通訳であったヒュースケンや、写真家ウンシンの助手ラウダー女史から写真術を学びます。苦労の末に、1862年(文久2)弁天通りに写真館を開きます。一旦下田へ帰りますが、1868年(明治元)馬車道に再度、写真館を開設しました。これが日本初の写真スタジオの誕生といわれます。写真家としては同時期に長崎で撮影をしていた上野彦馬が日本人初という説もあります。

 

1870年(明治3)、ドイツのシュルツ・ライス商会がガス燈の建設を神奈川県に申請しますが、外国人にガス事業を独占されることを嫌った高島嘉右衛門らが、中区花咲町にガス製造所建設に乗り出します。これが日本におけるガス事業の始まりです。

 ガス燈建設の免許をめぐってライス商会と激しい競争になりますが、日本瓦斯社中がその免許を獲得します。そして、神奈川県庁と大江橋から馬車道の本町通りまでの間にガス燈十数基が灯りました。この碑がある場所のガス燈は本物のガスを灯しています。

 

馬車道では毎年5月「アイスクリームの日」の記念イベントが開催されます。これは1869年(明治2)、馬車道通りの常磐町5丁目で町田房三が氷水店を開業し、「あいすくりん」と名付けて売り出したことを記念して開催されるものです。町田はアメリカで酪農を学んだ出島松造からアイスクリームの製法を学んだともいわれています。町田自身も1860年、咸臨丸でアメリカへ渡ったので味、製法を知っていたともいわれています。同じ年に販売された函館氷があいすくりんの製造に使われたのかもしれません。

 

街路樹は近代になってから、人口過密な都市の景観を魅力的にするために発展してきました。日本の街路樹は欧米の都市の影響を強く受けています。1867年(慶応3)、馬車道に店を構える人たちが挙って柳と松を植えたのが日本の街路樹の始まりといわれています。今はアキニレの街路樹になっています。

 馬車道にガス燈が灯ると、その淡い灯に街路樹は美しく映え夜景を楽しむ人々で賑わったそうです。本町通りや海岸通りにも松が植えられました。

 

 1859年(安政6)横浜開港の準備として、東海道から横浜への道路を建設しました。その時架橋された、吉田新田から太田屋新田に通じる木製の大橋が吉田橋です。1866年(慶応3)の横浜大火の後、木製の橋から鉄製の橋に架け替えられました。この鉄(かね)の橋を設計したのが横浜公園を設計したブラントンでした。1869年(明治2)日本最初の無橋脚トラス式鉄橋が完成しました。橋長23.6m、幅員9.1mです。

 

 この他にも横浜には、日本初のモノやコトがたくさんあります。次の機会にまた、訪れたいと思います。