◆9月11日(金)追跡!生麦事件(終了しました)

秋晴れの天候のもと、今日は幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えた生麦事件の足跡を辿ります。

 生麦事件は、江戸から京へ向かう島津久光の一行に英国人4人が馬を乗り入れ、薩摩藩士に殺傷される事件です。幕末の尊王攘夷派と開国派が対立する国内の政情に大きな影響を与えました。この生麦事件の舞台となった神奈川宿から出発します。

 まず最初に訪れたのは金蔵院、平安時代に創建された真言宗の古刹です。徳川家康が上洛時に宿泊したと伝わります。その後、御殿ができるまで利用されました。本堂の前には「家康御手折りの梅」が残っています。

 神奈川宿の高札場です。高札場は宿場の中心に設置され、住民や行き交う旅人に禁止事項・次の宿場までの駄賃などを掲示した場所です。宿場間の距離は高札場から次の高札場までの距離で表されます。

 

幕末に外国人宣教師の宿舎となった成仏寺です。ヘボン式ローマ字で有名なヘボン博士も、この寺院に居住していました。ヘボン博士が来日したのは1859年10月ですが、1862年の12月まで宣教医として和英辞書の編纂や医療活動のため成仏寺に滞在しました。生麦事件の起きた1862年(文久2年)9月14日、被害者のイギリス人の治療をするため、ここからアメリカ領事館のあった本覚寺へ駆けつけました。

 

ヘボン博士は1861年4月から9月までの5か月間、この宗興寺で施療しました。ヘボン博士は眼病や脳腫瘍の手術まで行ったそうです。多い時は1日百名の患者に無料で医療を施しました。この宗興寺で3,500人の患者に施療したとヘボン博士は故郷への手紙に書いています。あまりに評判が良いため、幕府はキリシタン布教を恐れて5か月間で診療を禁止しました。また同時期に来日したシモンズ博士も宗興寺に住んでいました。このシモンズ博士も十全病院の医者として勤務し、福沢諭吉の腸チフスの治療に当たりました。

 

 日蓮宗の寺院ですが、開基の妙湖尼が鎌倉へ向かう途中に立ち寄った日蓮上人と出会い、深い感銘を受けて自分の庵を法華経の道場にしたことに始まります。

 1859年(安政6年)の開港時にはイギリス領事館が置かれました。しかし生麦事件が起きた1862年9月14日(文久2年8月21日)には、領事館は既に横浜へ移転していたようです。生麦事件の犠牲になったイギリス人たちは事件の現場からこの寺院を通り越して本覚寺に向かいました。

 

 神奈川台場は安政6(1859)年5月に、勝海舟の設計(縄張り)によって建設が始まりました。伊予松山藩が「神奈川辺御警衛被仰付」6万両の費用を投じて、翌万延元(1860)年6月に竣工しました。周囲を石垣で囲んで外形を整えて塁台を作ります。埋め立ての土は付近の権現山を取り崩して運んだそうです。

 

 神奈川台場は高さ8.5m、幅236m、総面積2.6haに及びます。設置された大砲は14挺で、佐賀藩が鋳造した36封土カノン砲が10挺設置されました。しかし実包を打つことはなく、礼砲用にだけ使用されました。不発や暴発が多く明治32(1899)年には台場そのものが廃止されました。暴発事故で亡くなった犠牲者の碑「招魂碑」が宗興寺にあります。

 

開港時は外国人の遊覧場所として賑わっていた権現山です。神奈川台場の建設や鉄道用地の埋め立てで、山は大きく削り取られました。この権現山は古戦場で、関東管領の上杉氏の家臣である上田蔵人が北条早雲に寝返り、上杉軍2万人の兵と戦ったそうです。この地を流れる滝の川が小机城への要路で、権現山は重要な戦略拠点となっていました。

 

 この寺院は栄西が創建した臨済宗の寺院でしたが、今は曹洞宗の寺院です。開港時にはアメリカの領事館として使われました。生麦事件が起きた日、傷ついたマーシャルとクラークが」逃げ込み、駆けつけたヘボン博士の治療を受けて一命を取り留めました。

 日米修好通商条約においては、横浜開港は1859年7月4日となっていました。7月4日はアメリカの建国記念日で、境内の墓地にある大木に星条旗を掲げ、シャンペンで乾杯したと伝わります。

 

本覚寺から坂を上ったところに高島台があります。幕末から明治にかけて横浜で活躍した実業家、高島嘉右衛門が住んでいたことからこの名が付きました。後方に見えるビル群は元は海中でしたが、この地を埋め立てて鉄道用地に仕上げたのが高島嘉右衛門です。嘉右衛門はその他にも瓦斯会社を創業し、初めてガス燈を横浜に点灯しました。また、下水溝や学校の設立など、横浜のインフラ整備に尽力しました。

 

神奈川宿西側の関門跡です。幕末時、外国人襲撃事件が頻発し、幕府は各国領事から対策を迫られます。そして神奈川県下には20の関門や番所を作り、事件を未然に防ごうとしましたが、生麦事件が起きてしまいました。この神奈川台関門は、生麦事件後に薩摩藩の島津久光一行がこの関門を通り過ぎた後、外国人たちが追ってこられないよう、すぐに閉門したそうです。

 

台町です。江戸時代この坂の左側は袖ヶ浦という海が広がっており、風光明媚の地でした。歌川広重の浮世絵「東海道五十三次之内 台の景」でも有名な場所です。「東海道中膝栗毛」の弥二さん喜多さんもここで休憩しました。

 随分景色が変わり海面は見えませんが、今も続く料理旅館が当時の佇まいをわずかに残します。

 

 事件発生現場の生麦へ戻ってきました。生麦は江戸時代から御菜八カ浦の一つで、月に三度江戸城へ鮮魚を献上していました。今でも多くの鮮魚商が軒を並べています。

 この通りは旧東海道です。江戸からこの東海道を島津久光一行が京へ向かう途中、生麦事件は起こりました。

 

 魚河岸通りから少し先の民家の前が事件の発生現場です。島津久光一行の行列の中に英人4人の乗った馬が乗り入れてしまいます。この無礼に怒った供頭の奈良原喜左衛門がリチャードソンら4人に斬り付けます。英人4人は来た方向へ馬を廻らせ逃げようとしますが、1町程前にいた先導隊の久木村治久が再び、リチャードソンらに斬り付けます。

 マーシャル、クラークも太刀を浴び重傷を負いますが、本覚寺のアメリカ領事館に逃げ込み、ヘボン博士の治療を受け、一命を取り留めました。一緒にいたボロデール夫人は、帽子を斬られましたが、なんとか横浜の外人居留地に逃げ込み助かりました。

 

二度斬り付けられたリチャードソンは、この碑の場所で落馬し、後から追ってきた藩士に殺害されました。(この碑は現在、仮の場所に移動されています。)

この後、薩摩藩と英国は犯人の検挙・処分・賠償金などを巡り薩英戦争が勃発しますが、武力で勝てないことを悟った薩摩藩は攘夷から倒幕・開国へと大きく舵を切ることになりました。