4月21日(木)義経の鎌倉・藤沢(終了しました)

白旗神社
白旗神社

 元暦2(1185)年、壇ノ浦で平家を滅ぼしながら兄頼朝の怒りを買った義経は鎌倉入りを許されず、逃げ延びた奥州で自害します。源義経が祭神に祀られる藤沢市の白旗神社から「義経の鎌倉・藤沢」を辿ります。

 白旗神社は創立年代は不詳ですが、相模国一ノ宮寒川神社を勧請。

 宝治3(1249)年に源義経の霊を弔い合祀したと伝わります。一般的に白旗神社は頼朝を祀る神社ですが、ここでは義経を祀っています。

義経公霊碑
義経公霊碑

 江戸末期の藤沢の郷土誌「我が住む里」では、義経の怨霊に苦しめられた頼朝は、首塚から北の山上に社を建て、義経の霊を祀らせたと伝えています。また義経の首を祀ったのは、頼朝の命を受けた藤沢次郎清親とする説もあります。

 

義経首洗い井戸
義経首洗い井戸

 文治5(1189)年、31歳の若さで自害した義経の首は、平泉から黒漆櫃に納められて鎌倉に送られ、腰越の浜で首実検された後、そのまま浜に打ち捨てられたといいます。首は(金色の)亀に背負われ境川を遡り藤沢に到着。この井戸で里人によって洗い清められ、丁重に葬られたといわれます。かつて井戸から北へ40mのところに首塚があったと伝わります。

弁慶塚
弁慶塚

 ここにはかつて弁慶の霊を祀る八王子権現社があり、義経を祀る白旗神社に向き合うように建っていたそうです。宝暦2(1752)年に、藤沢の人々が御旅所を建てましたが、この頃に弁慶塚も造られ、義経の霊をここから見守らせたのではないかと推測されています。

荘厳寺
荘厳寺

 本尊は不動明王で真言宗のお寺です。寺伝では元暦元(1184)年、覚憲によって現在地に創建されました。

 延享4(1747)年に白旗神社東隣に移転再建、白旗神社の別当寺として管理運営をしていましたが、神仏分離令により明治8(1875)年に現在地に移転しました。創建の元暦元(1184)年は義経が木曽義仲を討った年です。

義経公位牌
義経公位牌

 荘厳寺の寺宝です。表に「白旗大明神神儀」、裏に「清和天皇十代末源義経公」と記された位牌が本堂に安置されています。天保3(1832)年、宥全(ゆうぜん)和尚の時のもので木製黒漆塗りです。江戸期以来、現在に至るまで、藤沢の人々に篤く信仰されてきています。

境川河口
境川河口

 文治5(1189)年6月13日、藤原泰衡の使者が、美酒を浸した黒漆の櫃に納められた義経の首を持参。腰越の浦で和田義盛、梶原景時が実検したが、見ていた人々は皆、涙を拭いた為、両袖は涙で湿ってしまったそうです。その後、首がどうされたのか記録は伝えませんが、伝承では、浜に捨てられ潮の流れに乗って境川を遡ったといわれます。なお、当時の河口は現在よりも東側にあり、龍口寺付近にあったようです。

小動神社
小動神社

 小動(こゆるぎ)神社は腰越の鎮守です。小動は、風もないのに揺れる美しい松の木がこの地にあったという伝説にちなんでいます。文治年間(1185~90)、江の島詣での折に訪れた佐々木盛綱がその松に魅了され、父祖の領地・近江の国の八王子宮を勧請したのが始まりとされています。盛綱は兄定綱、弟高綱らと共に源平合戦で活躍した鎌倉初期の武将です。

浄泉寺
浄泉寺

 浄泉寺の開山は空海と伝わりますが、創建の年次や由緒は不明です。本尊は不動明王で、左手に剣を持ち、腕を交差させており「左剣不動明王」と呼ばれています。大正6(1917)年まで小動神社の別当を務めましたが、明治の神仏分離令以後もこのような形が続いたのは珍しい例です。

満福寺
満福寺

 満福寺寺伝では開山は行基、創建は天平16(744)年と伝えますが定かではありません。本尊は薬師如来立像(木造、室町時代作、頭部は江戸時代)。腰越は、鎌倉から京都へ向かう街道の最初の宿駅です。当寺が駅舎の跡といわれます。寺伝では元暦2(1185)年、義経は平宗盛父子を護送し東下したが、鎌倉入りを許されなかったため、当寺に逗留し腰越状を認めたとします。

「源義経と腰越」文学碑
「源義経と腰越」文学碑

 満福寺門前には、平家物語と腰越状の冒頭部分を引用した「源義経と腰越」文学碑があります。境内には義経が手を洗ったという井戸、弁慶が腰越状の下書きをするため水を汲んだという硯の池と腰掛石、弁慶の手玉石などがあります。