6月23日(木)・28日(火)旧東海道・品川宿を歩く(終了しました)

東海道五十三次之内 品川(歌川広重・保永堂版)
東海道五十三次之内 品川(歌川広重・保永堂版)

 徳川家康は江戸に入府すると、江戸と各地を結ぶ諸街道を整備、慶長6年(1601)、東海道に宿駅伝馬制度を設け、各宿場に輸送用の馬と人足を常備させました。

 品川宿は江戸を出て最初の宿場で、「江戸四宿」のなかで唯一、海に面する風光明媚な立地で、江戸庶民の手軽な行楽地として賑わっていました。今回は品川宿を南から北へ向かいます。

海雲寺
海雲寺

 品川の荒神様として江戸時代から親しまれてきた海雲寺です。寛永14年(1637)の島原の乱に鍋島直澄が出陣した折、天草の荒神様に必勝祈願をしました。祈願の甲斐あり、乱を平定できたので荒神像を江戸の藩邸へ遷座、明和7年(1770)に海雲寺に遷座されました。堂内の格天井には文久元年(1861)に奉納された雌雄ニ鶏図や、浪曲師広沢虎造が奉納した多くの扁額が掲げられています。境内には、悲しい話が伝わる平蔵地蔵もあります。

品川寺(ほんせんじ)
品川寺(ほんせんじ)

 品川区では最古の寺で、大同年間(806~810)の開創と伝わります。ご本尊の水月観音は弘法大師空海が、この地の領主品河氏に授けたものと伝わります。応永2年(1395)に上杉禅秀の乱で品河氏が滅びますが、水月観音は草堂に安置され人々に信仰されます。長禄元年(1457)には太田道灌により伽藍が建てられました。

銅造地蔵菩薩像
銅造地蔵菩薩像

 品川寺門前には江戸六地蔵のひとつ、銅造地蔵菩薩像が安置されています。江戸六地蔵は、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、地蔵菩薩に祈願したところ病が治ったので、江戸の入り口6カ所に地蔵菩薩を造立したものです。品川寺の地蔵菩薩像はその第一番で、像高275cmで、六地蔵の中では一番大きいものです。

 品川寺の梵鐘は慶応3年(1867)、パリの万国博覧会に出品されましたが、その後行方不明になります。スイスのジュネーブ博物館にあることがわかり、昭和5年(1930)にジュネーブ市から返還されました。ジュネーブの鐘と呼ばれています。

天妙国寺
天妙国寺

 弘安8年(1285)、日蓮の弟子・天目が創建と伝わります。15世紀中ごろに、品河湊の豪商・鈴木道胤の寄進により五重塔など七堂伽藍が建てられました。徳川家康が江戸入府の時に、天妙国寺を宿舎としたことから、幕府より10石を寄進され、秀忠・家光もたびたび天妙国寺に来遊しています。

 境内の墓地には、浪曲師・桃中軒雲右衛門や剣豪・伊藤一刀斎、切られ与三郎のモデル芳村伊三郎などの墓もあります。

海徳寺
海徳寺

 この地は鳥海和泉守の屋敷でしたが、大栄年(1522)に出家し屋敷を寺としました。本堂は寛延4年(1751)に建てられ、品川区では最古の建築物のひとつです。本堂の前には長谷川昂(こう)作の釈迦誕生仏が祀られています。

 境内には巨人軍の王貞治選手と14歳で病没した少年との交流にまつわるホームラン地蔵や、軍艦「千歳」殉難者の碑があります。

荏原神社
荏原神社

 社殿によると、和同2年(709)奈良の丹生川上神社より高麗神(龍神)を勧請して創建されたと伝わります。長元2年(1029)に神明宮、宝治元年(1247)に牛頭天皇を勧請し、古くから品川の龍神さまとして親しまれてきました。また、康平5年(1062)源頼義・義家父子が、前九年の役で奥州へ向かう時に戦勝祈願をしたといわれています。南品川の鎮守として宿場を護っています。

寄木神社
寄木神社

  寄木神社本殿正面の二枚扉の内側に、

 幕末から明治にかけて活躍した左官の名工

 伊豆長八の手になる「こて絵」が残されています。左側には天照大神(あまてらすおおみかみ)と天鈿女命(あめのうずめのみこと)、右側には猿田彦命(さるたひこのみこと)が描かれています。天孫降臨神話に基いています。鏝(こて)で漆喰を盛り上げて、浮彫風に採食をしたもので、伊豆長八独自の技法による作品です。

本陣跡
本陣跡

 品川宿の中央に位置してありました。東海道を通る参勤交代の大名や、公家・門跡・幕府役人などの宿泊休息施設として賑わいました。入口には冠木門があり、一番奥には上段の間がありました。旅籠は2階建てですが、本陣は平屋建てで、一般の旅人は利用できませんでした。

 明治元年(1868)に明治天皇の京都から東京への東幸の際に行在所となったことからこの地は聖跡公園と呼ばれています。

品川神社
品川神社

 文治3年(1187)、源頼朝が安房国(千葉県)の洲崎神社から天比理乃咩命(あめのひりとめのみこと)を勧請したのが始まりと伝わります。寛永14年(1637)、隣接地に東海寺が建立されたため、品川神社は東海寺の鎮守となりました。現在の社殿は昭和39年に再建されたものです。写真の双竜鳥居は、大正14年に北品川の料亭の主人が寄進したもので、東京三鳥居のひとつです。

富士塚
富士塚

 富士塚は明治3年(1870)に造られました。標高15mで、東京都内にある富士塚では最大であるといわれています。今でも、毎年7月1日の山開きには、講中の人が白装束で登っています。

 神社の裏手には板垣退助の墓があります。傍らには、佐藤栄作の書による「板垣死すとも自由は死せず」の碑があります。この墓地は元は東海寺の塔頭である高源院があったところです。

 

一心寺
一心寺

 寺伝によると、安政2年(1854)、後に大老となる井伊直弼が、品川台場がある品川宿に鎮護日本、開国条約、宿場町民の繁栄と安泰を願って開山し、品川町民一同により建立されたと伝わります。昭和になり成田山分身の不動明王を本尊として、延命、商売の守護となりました。品川宿にある寺で唯一、旧東海道の海側にあります。一心寺がある辺りに、北品川宿の脇本陣がありました。

鯨塚
鯨塚

 寛政10年(1798)5月、天王洲の浅瀬で鯨が動けなくなっているのを漁師が捕えます。長さ16m余り、高さは2mもあり、瓦版が発行されるほど人気になり、多くの見物人が押し寄せたといいます。この話は江戸城にも伝わり、鯨は浜御殿(現・浜離宮恩賜公園)で11代将軍徳川家斉が上覧したそうです。その時に、家斉が「うちよする浪は御浜のおにはそと くじらは潮をふくはうち海」と詠んだそうです。

御殿山下台場跡
御殿山下台場跡

 嘉永6年(1853)、ペリーが黒船で浦賀に来航し、日本に開国を要求しました。幕府は国防のため、品川沖から深川にかけて11の台場を作ることにします。江川太郎左衛門英龍の指導により、5基の台場は竣工、2基は工事半ばで中止、他は未着工に終わりました。11か所の台場以外にも陸続きの五角形の台場、御殿山下台場が造られました。現在でもこの台場の五角形の敷地が確認できます。これらの台場造成には御殿山を切り崩した土砂が使われました。

土蔵相模(跡)
土蔵相模(跡)

 旅籠の相模屋は外壁が土蔵のようななまこ壁だったので、「土蔵相模」と呼ばれていました。桜田門外の変の決行前夜、水戸浪士は相模屋に集まったといわれています。また、長州藩の高杉晋作や久坂玄瑞、井上馨、伊藤博文らは、この相模屋で、御殿山の英国公使館焼打ち計画を練り、文久2年(1862)12月12日深夜に焼打ちを実行しました。生麦事件の4か月後で、翌年には薩英戦争が勃発、日本の激動の舞台となりました。

品川駅創業記念碑
品川駅創業記念碑

 明治5年(1872)5月7日(新暦6月12日)に品川・横浜間に日本で最初の鉄道が仮営業しました。これは新橋・品川間の工事が遅れていたためです。そのため品川駅ではこの日を創業の日としています。新橋・横浜間で正式開通したのは、仮営業から4か月後の明治5年9月12日(新暦10月14日)でした。それを記念して10月14日は「鉄道の日」となっています。この記念碑は開通80周年を記念して建てられたもので、当時衆議院議長だった大野伴睦の書で、裏面には仮営業当時の時刻表と運賃が記載されています。