7月13日(水)ペリー来航の街 浦賀を歩く(終了しました)

浦賀眺望
浦賀眺望

 三浦半島の先端にある「浦賀」は、東京湾の入り口に位置し、歴史の痕跡がたくさん残る港町です。戦国時代、小田原北条氏は浦賀城を築き水軍の基地としました。江戸時代には浦賀奉行所が置かれ諸国の廻船の船改めを行い、幕末には江戸海防の最前線として重要な役目を果たしました。ペリーが来航した地としても有名です。明治以降は、造船の町として発展しました。

燈明堂(石垣部分は横須賀史跡、昭和63年復元)
燈明堂(石垣部分は横須賀史跡、昭和63年復元)

 江戸時代、寛永期(1624~1643)になると浦賀近海の鰯漁は飛躍的に増大し、干鰯問屋が隆盛を極め、一時期は全国の干鰯商いを独占するほどでした。船の出入りも多くなり、慶安元年(1648)幕府は港の入口に燈明堂を建立、元禄4年(1691)からは干鰯問屋が管理するようになりました。

 高さ7.32m、木造瓦葺き二階建ての燈明堂は一晩に菜種油1升(1.8ℓ)程消費し、灯りは海上4里(7.2km)程到達したといいます。

 嘉永6年6月(1853年7月)アメリカのペリーが黒船艦隊を率いてこの辺りへ来たとき、黒船に乗り込んで折衝の任にあたったのが、浦賀奉行所の与力中島三郎助と香山栄左衛門です。

為朝神社
為朝神社

 浜町の鎮守で鎮西八郎為朝(源為朝)を祀っており、航海、疱瘡除けの神様として信仰されました。

 この浜町に伝承されている「虎踊り」は、浦賀奉行所の開設にあたって伊豆下田から引っ越してきた60軒余の問屋の人たちが伝えたもので、神奈川県の無形文化財に指定されています。内容は近松門左衛門の「国姓爺合戦」を基にしており、毎年6月の為朝神社の祭礼に奉納されています。

浦賀奉行所跡
浦賀奉行所跡

 18世紀初頭江戸の町の発展に伴い、全国から江戸に向け、船によって物資が大量に運ばれるようになると下田番所(奉行所)では対応できなくなり、享保5年(1720)に浦賀奉行所を設置しました。「船番所」を置いて、江戸へ出入りする船をここで検査し海難救助や地方役所としての仕事も行いました。また、文化・文政(1804~1830)のころから、たびたび日本近海に出没するようになった異国船から江戸海防の最前線として、さらに重要な役割を担うようになりました。

船番所跡
船番所跡

 船番所には船を入れる「御船屋」が2棟あり、300石の船2隻をはじめ、「抜け船」を見張るための船も備えていました。与力2名、同心6名が常駐、「船改め」を行いました。実務は三方問屋と呼ばれる下田と東西浦賀の廻船問屋百軒余が委託されていました。

 浦賀に入ってきた船は、大きさに応じた石銭(10石当り3文)と乗組員の人数分の問屋料(1人当り銀1匁8分)を支払いました。

 番所跡前の桟橋は太平洋戦争後、南方や中国大陸からの引揚者56万人余りが上陸したところです。

西叶神社
西叶神社

 西浦賀の鎮守で、祭神は誉田分命(応神天皇)。源氏の再興を願った文覚上人が房総半島の鹿野山で修業し、自分の願いが叶えられるなら良い土地を選んで神社を建てるという誓いをたて、養和元年(1181)頼朝ゆかりの鹿野山の対岸である西浦賀のこの地に、石清水八幡を勧請しました。元暦2(1185)壇ノ浦で平家を破り源氏の世になると、大きな願いが叶ったことにより「叶明神」の称号を授けました。

西叶神社・力士像
西叶神社・力士像

 西叶神社の現在の社殿は、天保13年(1842)に再建されたもので、社殿を取り巻く彫刻は、房総の名工・後藤利兵衛の作品で、神殿の棟柱を担ぐ力士像などの彫刻は横須賀市の市民文化遺産に指定されています。

西叶神社「鏝絵(こてえ)」(石川善吉)
西叶神社「鏝絵(こてえ)」(石川善吉)

 社務所の鏝(こて)絵です。左官職人が壁などの仕上げに鏝で漆喰を塗り上げて作った彫刻風の絵です。江戸時代の左官職人伊豆の長八によって始まったと伝わります。江戸時代より浦賀には豪商の屋敷や土蔵が立ち並び漆喰を塗る職人が多くいました。明治になると浦賀でも石川善吉らの手によって盛んに鏝絵が作られるようになりました。

渡船・浦賀の渡し
渡船・浦賀の渡し

 渡船の歴史は古く、18世紀初めにまで遡ります。江戸時代は合力といって東西浦賀の住人と近隣の村から一戸何文というかたちであつめ、それで運航していました。明治になると浦賀の町内会が共同事業として運航していましたが、それを浦賀町が買い取り町営交通としました。現在は、横須賀市が業者に委託して運航しています。ちなみに、渡船の航路は「横須賀市道2073号線」となっています。(乗船料200円、定員12名)

 

東叶神社
東叶神社

 東浦賀の鎮守です。玉垣を巡らした境内の正面、石の鳥居は浦賀湾に面し、境内には白い砂がまかれています。社務所を通り過ぎると赤い鳥居があり、祠の奥には石の弁才天が祀られています。祭神は「厳島媛命」で海難その他の難事の際に身代わりとなって人々を救う「身代わり弁天」として祈願されています。

 現在の拝殿は関東大震災後に再建されたもので、拝殿前の狛犬は左右とも吽形で、子に乳を飲ませています。

勝海舟断食の跡
勝海舟断食の跡

 安政7年(1860)勝海舟ら一行は咸臨丸で太平洋を横断し、サンフランシスコに上陸しました。勝海舟は、出航前に盟友である中島三郎助を浦賀に訪ねた際、航海の成功を祈願し東叶神社に詣でます。境内にある井戸水で水ごりを済ませ、奥の院で座禅を組み断食修業を行ったと伝えられています。

 社の裏山の明神山には、戦国時代の後北条氏が房総半島の里見氏をけん制するために築いた浦賀城跡があります。

東耀稲荷
東耀稲荷

 東耀稲荷は天明2年(1782)に創建されました。さほど大きくはありませんが、格天井や欄間などの彫刻の見事さは東西浦賀の稲荷社の中では随一です。また、左右隅棟の上には恵比寿と大黒の飾り瓦が乗り、いかにも商売の町として繁栄していたことを偲ばせてくれます。この稲荷は、火伏の神としても崇拝されています。またここには須賀神社も合祀され新町地区の鎮守にもなっています。

1950年代の浦賀ドック全景(「浦賀・追浜百年の航跡」より)
1950年代の浦賀ドック全景(「浦賀・追浜百年の航跡」より)

一世紀以上にわたって約1000隻にのぼる艦船を造り続けてきた浦賀ドックです。平成15年に閉鎖されるまで、30mを超す高さのクレーンが空を覆い、日本丸、海王丸をはじめ、青函連絡船、大型タンカー、自動車運搬船、護衛艦などの船がこの浦賀ドックで建造され、街はドックで働く人たちでにぎわいました。

 浦賀の造船の歴史は古く、安政元年(1854)には、中島三郎助らにより日本最初の洋式軍艦、鳳凰丸が建造されました。太平洋横断直前の咸臨丸もこの河口で修理が行われました。現在も解体されずに残されているクレーンや明治32年(1899)に建造されたドライドックなどに当時の面影を偲ぶことができます。