9月27・29日 ペリーが歩いた横浜・YOKOHAMA(終了しました)

 1984(嘉永7)年3月31日、日米和親条約が締結され、日本は新しい時代を迎えることとなりました。条約締結後の4月6日、ペリーは束の間の休日を利用し、12名の部下とともに春爛漫の横浜村周辺を散策し、名主の石川徳右衛門宅では家族の暖かい接待を受け、また村人とも親しく交わりました。当時の史料をひもとき、その歩いたルートを推理しながら巡ります。(行程の都合上、一部を逆ルートにして実施しています)。

象の鼻パーク
象の鼻パーク

 天気は快晴。スタートは日米会談が行われた条約館(応接所)からです。ここが現在の「YOKOHAMA」の原点になった神奈川県庁付近ですが、この地に決まるまで選定交渉は難航し膠着状態に陥りました。これを打開したのが、浦賀奉行所の香山栄左衛門ら中堅官僚(与力)の活躍でした。

元浜町通り(旧海辺通り)
元浜町通り(旧海辺通り)

 さて、ここからペリーらは、海沿いの道(旧海辺通り、現在の元浜町)を進み、砂嘴が長く延びた象ケ鼻方向に向かいます。電信機の実験のために建てられた小屋の辺り(現在の北仲通付近)を通り、小さなお宮に入ります。

弁天社辺り
弁天社辺り

 頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧請したと伝えられる洲干弁天社です。敷地は約12,000坪。江戸名所図会にも描かれた白砂青松で瓢箪池があり、遥かに富士、大山を望む風光明媚な地です。一行は彫像3体を拝観しますが、時間がなく詳しい説明が聞けず残念だったようです。弁天社は開港後、門前が弁天通として整備され、さらに街区拡張のため、明治2年に現在地の羽衣町に移転し厳島神社と改称しました。

太田町通り
太田町通り

 弁天社を参拝後、太田屋新田を土手沿いに南に進みます。ここはまだ開発中の新田で、完成したのはペリーが歩いた2年後の安政3年です。下田ばかりだったとのことですが、現在の横浜公園や市役所を含む広大な面積で、完成が開港直前であったため、結果的に横浜発展の第一歩の地となりました。埋め立て造成地のせいか、現在でも進行方向の右側(関内駅方面)が、少しずつ下がっているのが分かります。

横浜新田(現在の中華街)
横浜新田(現在の中華街)

 日本大通りを渡り、さらに横浜新田を「土手沿いに水田を突き切り」南に向かいます。ここは、ペリー来航の約50年前に村人が協力して開発した村請新田です。中華街はこの新田の形状を今に留めていますが、その理由については定かでありません。ペリーは今の中華街の賑わいをどのように感じているのでしょうか。

元町公園
元町公園

 ペリー来航の6年後に開削された堀川をわたり、元町公園に着きました。幕末から明治にかけて、フランス人のジェラールが、この辺り一帯の広大な土地を所有(永代借地権)していました。彼は豊かな湧水を利用し、外国船への水供給や、フランス瓦の製造など幅広く事業を行いました。来日して15年、莫大な資産を築き帰国しました。これから山(丘)越えですが、私たちは右側の額坂を上り尾根道(山手本通りのエリスマン邸前)を目指します。

諏訪神社から北方村を望む
諏訪神社から北方村を望む

 山手本通りから南坂を一気に下ると北方村の東漸寺です。(通訳の)ウィリアムズは「やがて樹木の多い、きれいな峡谷へ下って小さな寺でしばしの憩いをとった。そこは魅惑的な場所で、椿、桃、梅がちょうど咲きほころんで華やかさを添えていた。」と、随行記に記しています。艦内暮しが長かったペリーにとって、境内でのひと時はこの上ない安らぎの時間だったでしょう。残念ながらお寺は明治8年に焼失、現在は中区大平町に移転し、跡地は北方小学校になっています。162年経った現在、近くにある諏訪神社の小さな社だけが微かに当時の雰囲気を残すのみです。

麒麟麦酒(株)開源記念碑
麒麟麦酒(株)開源記念碑

 その後、明治3年に米国人のコープランドがお寺の森に隣接して、ビール醸造所を作りました。いく度かの変遷を経て、明治40年に麒麟麦酒(株)が誕生。工場は澄んだ水を湛えた天沼を取り込む形で建てられていましたが、関東大震災で被災し大正15年に鶴見に移転、跡地には大きな開源記念碑が建てられています。

横浜外国人墓地正門
横浜外国人墓地正門

 諏訪町を抜け陣屋坂を上ると正面が横浜外国人墓地正門です。現在の面積は約5,600坪、埋葬者は40数ヵ国、約4,900人です。最初の埋葬者はペリー艦隊のウィリアムズ隊員で、開港後は生麦事件の被害者や病気などで死亡した外国人が埋葬され、徐々に現在のような規模になっていきました。異国の地に散った人々を偲びつつ、貝殻坂を下り外国人墓地の22区に向かいます。

外国人墓地22区
外国人墓地22区

 ウィリアムズ隊員は、四角錘のオランダ人船長の墓標の右手奥の辺りに埋葬されました。埋葬の様子は松代藩の絵師によって描かれていますが、この時ヘンデルの葬送行進曲が演奏され、また埋葬場所について「丘の麓のとても美しい場所」と遠征記は記しています。そのお墓も3ヵ月後に下田の玉泉寺に改葬されました。なお、この時代の本牧道は22区の中を通っており、ペリーも東漸寺への往路、復路のどちらかで利用したことでしょう。一行は墓地の隣の増徳院に立ち寄った後、(通訳の)ウィリアムズの「提督は私の勧めに応じて回り道をして」石川徳右衛門宅を訪ねます。

 

代官屋敷
代官屋敷

 石川徳右衛門は条約館(応接所)の設営、食料、その他設備一切を取り仕切った横浜村の名主です。石川家では茶菓子、ワッフル(焼餅)、酒などのもてなしを受けましたが、名主の妻や娘がお酌をした味醂酒は、いつも嗜むグログ酒と同様に、さぞかし美味しいものだったのではないでしょうか。謹厳なペリーも上機嫌で、最後には一家全員の健康を祝して乾杯をしています。ペリーの横浜村への第一歩は、完全武装した約500人の士官、兵士に守られての上陸でしたが、今日一日は丸腰での散策で、「亜墨理駕船渡来日記」の筆者の一人は「心と心が触れ合えるようになった」「今別れと聞けば懐かしく思い」とまで記しています。そんな中、一行は「後影余波(なごり)惜し気の其様体」で帰路につきました。