3月14日(火)・16日(木)ハマの中世城郭の縄張りを巡って(終了しました)

小机城ジオラマ
小机城ジオラマ

 上杉氏によって築城された後、小田原城の支城として後北条氏により整備されたという小机城址と、その支城といわれ近年発掘調査が行われ話題となった篠原城址を訪ねます。天守や石垣を持たない中世城郭の縄張りのようすを観察し、その工夫に触れます。

 さらに、戦国期の混乱した関東の政治情勢や地域との密着度、他地域との関連などの歴史的背景を追います。

正覚院
正覚院

 

 篠原城は「新編武蔵風土記稿」に「代官金子出雲の塁跡なり」とあり、地元では「金子城」とも呼ばれていました。金子出雲守は後北条氏の代官であったため篠原城は小机城の支城であったと考えられますが、篠原城址に隣接する正覚院には14世紀後半の板碑が多く残されていることから、在地の武士団がこの城域を14世紀後半には利用していたことが窺われます。

篠原城と緑を守る会のメンバー
篠原城と緑を守る会のメンバー

 篠原城と緑を守る会の皆様に篠原城をご案内いただきました。

 篠原城は城郭研究の文献に明確な記載がなく、近年まで地元住民だけが知るいわば「まぼろしの城」でした。2004年伊藤慎二氏によって研究報告が、2010年には発掘調査が行われ堀や通路状遺構が検出されました。遺物としては15~16世紀の壺・鉢や、儀礼に使われたと思われるかわらけが発見されています。

篠原城の土橋
篠原城の土橋

 篠原城の築城当初は、在地武士団・農民の領域拠点・避難所としての性格が強かったものが、新たに後北条氏の戦略の一環として、小机城東方を守備する役割を与えられたと考えられます。永禄4年(1561)の上杉謙信、永禄12年(1569)の武田信玄の小田原侵攻を契機に、東方からの攻撃を防御するために整備されたと考えられます。現存遺構からも北・東面に最も備えの重点を置いていたことが窺えます。

篠原城址内
篠原城址内

 金子出雲守は戦国時代の後北条氏の「小田原衆所領役帳」に「小机衆 三郎殿 三十五貫文 小机 篠原 代官金子出雲」と、その名前が見えることから後北条氏の支配下にあったと思われますが、実質的には在地武士団の棟梁であり、この村落の領主であったと考えられます。篠原地区との結びつきを示す史料として、金子氏の菩提寺である長福寺本尊の薬師如来像の胎内から金子出雲守銘の棟札が発見されています。

金剛寺
金剛寺

 金剛寺は曹洞宗の寺院ですが、この寺院の後方丘陵部が古城跡ではないかという説があります。15世紀後半に太田道灌によって攻め滅ぼされました。

小机城址西廓
小机城址西廓

 小机城がいつ築城されたか明確ではありませんが、鎌倉公方足利持氏と室町幕府将軍足利義教が対立した永享の乱(1438~1439)頃に関東管領・山内上杉氏によって築城されたとされています。その後この地域が後北条氏の勢力下になると、二代北条氏綱によって大規模な修復がなされました。

 北条早雲の伊豆進出以来の家臣である笠原信為が城代となり、近隣の土豪を「小机衆」として組織し、玉縄城とともに小田原城を支える重要な支城となりました。

小机城址土橋
小机城址土橋

 小机城が歴史に登場するのは、文明10年(1478)の長尾景春の乱です。長尾景春は、跡目相続に敗れて不満を募らせ、上杉顕定と長尾忠景に対して反乱を起こしました。これが関東での戦国時代の始まりといわれています。

 扇谷上杉家の家宰だった太田道灌は、小机城に攻め込み、景春に味方した豊島泰経や矢野兵庫助・小机昌安を滅ぼしました。太田道灌は鶴見川を挟んで小机城と向き合っている亀の甲山に陣を構えたといわれています。

小机城内
小机城内

 空堀の中を歩きます。本丸跡の防備と敵の攻撃に対抗するための堀で、堀上部の幅は12.7m、堀底の幅5.0m、深さ12.0mからなる水をはらない堀です。堀として彫った土を両側に積み上げ、土塁として城郭を守る役目があります。

小机城帯曲輪
小机城帯曲輪

 小机城の城域は主廓と思われる西廓、やや不整形な東廓、第三京浜を隔てた高台の富士山仙元と大きく三分されます。主郭はほぼ方形で土塁で囲まれ、北側には後北条氏築城の特徴である二重土塁が残っています。東部には櫓(やぐら)台と思われる高台があり、井楼(せいろう)と呼ばれる木材を井桁状に組んで作った見張り櫓があったと思われます。

富士山仙元台
富士山仙元台

 江戸幕末期の富士塚です。文久元年に富士講中によって建てられました。本来物見台・鐘つき台だった可能性があります。元は主郭とつながっていましたが、第三京浜の開通によって分断されました。

雲松院
雲松院

 臥龍山雲松院は小机城城代の笠原信為が主君北条早雲と父笠原信隆の菩提を弔うために建立しました。笠原氏は旧領である遠江国榛原郡石雲院の季雲永岳の弟子、天叟須孝(てんそうしゅこう)を招いて開山としました。建立は北条早雲7回忌と笠原信隆三十回忌にあたる大永5年(1525)と推定されます。「雲松院」は信為の法名「乾徳寺殿雲松道慶」から名付けられました。

笠原家墓所
笠原家墓所

 笠原信為の曽孫である重政は、後北条氏滅亡後に徳川家康に仕え、都築郡台村に200石を与えられ、以後旗本としてこの地を支配しました。後に菩提寺が江戸に移り、現在では雲松院と笠原家との間には檀信徒の関係はありません。