5月11日(木)・16日(火)風薫る、ゑのしま道を歩く(終了しました)

ゑのしま道
ゑのしま道

 「ゑのしま道」は、江島神社に参拝するために利用された道で、一般的には旧東海道藤沢宿の遊行寺橋たもとの、江の島遥拝「一の鳥居」から江の島に至る1里9町(約5㎞)の道です。この道筋の一部は、鎌倉時代には京と鎌倉を結ぶ幹線道路として源頼朝・西行等が通り、江戸時代には、江の島弁財天を参拝する人々で賑わいました。本日は、境川の川風が運ぶ微かな潮の香に包まれながら、多くの古刹や石仏が連なる「片瀬の古道」の魅力を楽しみました。

石上公園
石上公園

 昭和50年代に藤沢駅南部の都市開発計画の一環として整備された公園。かつて江の島道の道沿いの石上村にあった庚申供養塔(以下、庚申塔)や道祖神などが集められています。藤沢市役所脇にあった江の島弁財天道標(以下、江の島道の道標)も、一昨年ここに移設されました。この辺りは、奈良・平安時代の記録に土甘郷(とかみごう)とあり、鎌倉時代には砥上ガ原(とがみが原)と呼ばれ、やがて砥上(いしがみ)から石上の集落名ができました。

新林公園 旧小池邸
新林公園 旧小池邸

 新林(しんばやし)公園。昭和55(1980)年に広い山林を公園化したもので、川名大池を中心に自然豊かな公園が広がっています。東の一角には旧福原家長屋門と旧小池邸が移築されています。福原家は三浦一族の出で、のち小田原北条家、徳川家に仕えました。渡内村の名主を務め、江戸時代後期の「高峯」の時に「相中留恩記略」を編纂しています。小池家の先祖は足利尊氏に仕え、江戸時代に唐沢村に移り、名主を務めていました。

大源太の辻道標
大源太の辻道標

 大源太(おおげんた)の辻は鎌倉道との分岐点(合流点)です。付近にはかつて「石上の渡し」がありました。享保15(1730)年の庚申塔は道標を兼ねたもので、「従是右かまくら道」「従是左ふじさわ道」と刻まれています。大源太の地名は、この辺りに住んでいた小塚姓の人々が名前のはじめに源太郎、源七などと「源」の字を使っていたことに由来するようです。この辺りは狭い砂丘地帯でしたが、片瀬地域の中で最も古くから集落が形成されたと考えられています。

馬喰橋(うまくらい橋)
馬喰橋(うまくらい橋)

 別名、馬鞍橋、馬殺橋とも呼ばれていました。源頼朝が馬の鞍を掛けて渡ったという伝説から馬鞍橋、またこの橋に来ると馬が死ぬので馬殺橋といわれていたようです。この橋は境川にそそぐ小さな川の橋ですので、境川の洪水や片瀬山から流れ落ちてくる水のため、過去において何度も流されたり、破損したりしたそうです。また、江戸時代この付近には片瀬湊の船着場があり、藤沢宿や高座郡への物流の重要拠点となっていました。

江ノ島弁財天道標
江ノ島弁財天道標

 伝えによれば江の島弁財天を篤く信仰した杉山検校が、江の島からほぼ1里以内の岐路に、道標として寄進したといわれます。48基あったとされ、現在は12基が藤沢市の重要文化財に指定されています。いずれも花崗岩製、高さ1m20㎝、各面幅約20㎝の尖塔角柱形で、正面に「梵字ゑのしま道」、両側面に「一切衆生」「二世安楽」と刻まれています。旅をする一切衆生の現世及び来世の安楽を祈った、造立者の温情がしのばれます。

泉蔵寺
泉蔵寺

 片瀬山大聖院、真言宗高野山派。北条泰時が創建したと伝え、和田義盛の乱、承久の乱などの犠牲者の鎮魂供養のために建立されたとのことです。新田義貞の鎌倉攻めで被災後、現在地に再建されましたが、元文元(1736)年の火災で古文書類をすべて焼失。現在の本堂は嘉永2(1849)年に再建。参道に多くの石仏があり、中でも享和4(1804)年の「桝形牛王」庚申塔は、冨士信仰をモチーフにした他に類例のないものです。

諏訪神社上社
諏訪神社上社

 創建は養老7(723)年。信濃の諏訪大社から上社・下社揃って分霊された最古の神社といわれています。天長3(826)年、諏訪ケ谷より現在地に遷されました。新田義貞が鎌倉攻めをした時に焼失しましたが、安永元(1772)年に再建(現社殿は昭和59年築)されました。新編相模国風土記稿には、「上下諏訪社ともに当村(片瀬村)の鎮守とす。鎌倉道をへだてて上下の両社相対せり」と記されています。

密蔵寺
密蔵寺

 宝盛山薬師院、真言宗大覚寺派。鎌倉時代末期に有弁が開山、新田義貞の鎌倉攻めで被災、その後も数度にわたり火災や震災の被害を受けました。現在の本堂は昭和6年の再建で、本尊は愛染明王(旧本尊は薬師如来)です。本堂前のかつらの木は、女優の小暮実千代が昭和13~14年、学生時代お世話になったお礼として、昭和32年に植樹した「愛染かつら」です。門前斜め前の三叉路には、江の島道の道標と安永9(1780)年銘の庚申塔が立っています。

一遍上人地蔵堂跡
一遍上人地蔵堂跡

 弘安5(1282)年3月1日、一遍上人が鎌倉に入ろうとしたところ、巨福呂(こぶくろ)坂で北条時宗の一行に出会い追い払われました。その夜は近くの山中で野宿し、翌日、片瀬の「館の御堂」に移りました。さらに3月7日にここにあった地蔵堂に入り、7月半ばまで滞在し布教につとめました。一遍の16年間の遊行のうち、当地での滞在が最も長いものです。国宝「一遍聖絵」には、帰依の人々が群集し、「紫雲たち花が降りはじめるなどの奇瑞が続いた」と記されています。

本蓮寺
本蓮寺

 推古天皇3(595)年、義玄の創建と伝えられる古刹。元暦元(1184)年に頼朝が再建。真言宗寺院として弥陀山大御堂源立寿寺と称しましたが、嘉元2(1304)年に日蓮宗に改宗。慶長の頃、徳川家康の休憩所となったことがあり、慶安2(1649)年に寺領7石を賜りました。境内の歌碑は、宗尊親王が将軍職を解かれ帰洛する途中、当寺で詠んだと伝えられる歌です。江戸時代は参道入口向かいに高札場があり、この辺りが片瀬村の中心でした。

西行もどり松
西行もどり松

 西行見返り松、戻(ねじり)松ともいいます。昔、西行法師が東国に下った時、この地に来て枝葉の見事な松の木を見て都が恋しくなり、思わず都の方を振り返り、枝を西の方へねじ曲げたからだと言われています。松の根方にある江の島道の道標には、「西行のもどり松」と刻まれています。新編相模国風土記稿は「本蓮寺の門外大路の傍らに在り」と記し、「江島見取絵図」には「西行見顧松」と記載されています。

常立寺(じょうりゅう寺)元使塚
常立寺(じょうりゅう寺)元使塚

 日蓮宗。開山は日豪、創立は永正年間(1504~21)の頃。もとは真言宗の寺院で回向山利生寺と称していましたが、日豪の時に日蓮宗に改宗しました。龍口寺輪番八ケ寺の一つで山号は龍口山です。鎌倉時代以降、ここを含め境川(片瀬川)河口から腰越にかけての一帯は刑場の地でした。境内にある「誰姿森(たがすがたもり)元使塚」は、建治元(1275)年に斬首された蒙古の使者杜世忠(とせいちゅう)以下5人の供養塔です。

龍口寺(りゅうこうじ)
龍口寺(りゅうこうじ)

 山号は寂光山で日蓮宗の古刹。日蓮の弟子、日法が建武4(1337)年(延元2)、日蓮の「龍ノ口法難」の地に、自作の祖師像を安置したのが始まりとされます。慶長6(1601)年に島村采女が土地を寄進し諸堂が整いました。江戸時代には特定の住職は置かれず、龍口寺輪番八ケ寺と呼ばれた周囲の住職が輪番で守ってきました。広い境内には、本堂、鐘楼堂、大書院、五重塔、日蓮が幽閉された御霊窟など、多くの建物や史跡があります。