6月10日(土)・13日(火)大山道 二子・溝口宿を歩く(終了しました)

二子・溝口宿
二子・溝口宿

 寛文9年(1669)に溝口村とともに継立村に指定されました。江戸日本橋から5里、次の荏田宿まで2里です。延宝9年(1681)に、久地村・諏訪河原村・久本村・末長村の4ヵ村が助郷村となりました。二子・溝口宿全体で亀屋など数軒の旅籠がありました。

 二子橋が架橋されると、手軽で風光明媚な行楽地となり、料亭が造られ、三業地が形成されました。最盛期(昭和10年頃)には、料亭や芸者置屋が約50軒、芸者が約100人いたといいます。

二子橋
二子橋

 大正12年(1923)の関東大震災で救援や復興の物資輸送や、陸軍の相模原地区での演習などのために、大正14年(1925)に開通しました。

 二子橋建設には玉川電気鉄道(現東急電鉄)が建設費用の約30%を負担し、残りを東京府、神奈川県、高津村が負担、総額36万円で完成しました。昭和2年(1927)に橋の上に軌道を敷き、玉川電車が溝口まで開通しました。長津田まで延長された昭和41年(1966)まで、二子橋の上を電車と自動車が一緒に走っていました。

二子の渡し跡
二子の渡し跡

 大正14年(1925)に二子橋が架けられるまで、多摩川には橋がなく渡し船でした。ここの渡し船は、人を渡す「徒歩舟」と馬や荷車を渡す大型の「馬舟」も用意されていました。「馬舟」には荷車なら5台くらい、馬車なら2台くらい乗せられたといいます。二子村と対岸の瀬田村が渡し船の仕事を行っていました。冬季の水量が少ないときは、仮橋が架けられていました。渡し場近くの河原には茶屋や料理屋がありました。対岸(世田谷区玉川)は、多摩川と野川の合流地点で中洲になっており兵庫島とよばれています。

二子神社
二子神社

 嘉永18年(1641)に武田氏の旧臣小山田兵部がこの地に定住し、天照大神を祀ったのが起源といわれます。明治時代に第六天と稲荷を合祀して、二子神社となりました。旧二子村の村社でした。境内に岡本かの子の文学碑があります。

 二子神社参道入口には常夜灯が設置されていました。

 

岡本かの子文学碑
岡本かの子文学碑

 昭和37年(1962)に建てられた「誇り」と名付けられた岡本かの子の文学碑で、かの子の長男岡本太郎がデザイン、台座は丹下健三の設計、歌碑撰文は亀井勝一郎、書は川端康成です。台座には、かの子の代表作の一つである「老妓抄」のなかにある「としとしに わが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり」が刻まれています。

光明寺
光明寺

 大悲山光明寺。浄土真宗(真宗大谷派)。「光明寺史抄」によれば、甲斐武田氏の旧臣小山田宗光が、慶長6年(1601)に小庵を結んだのが始まりといわれます。寛文9年(1669)に公用旅行者用の宿泊施設として、二子塚から大山街道に面する現在地に移転しました。現在の本堂は文化6年(1809)に再建されたものです。

 光明寺には明治7年から明治9年まで二子学舎が置かれ、小学校教育のもととなりました。

大貫雪之助墓
大貫雪之助墓

 光明寺は大貫家の菩提寺であり、墓地に岡本かの子の兄大貫雪之助の墓があります。雪之助は第一高等学校在学中に、「新思潮」の同人となり、谷崎潤一郎や和辻哲郎、芦田均らとともに活躍し、将来を期待されていましたが、東京帝大を卒業した年の大正元年(1912)、24歳の若さで病死しました。

大貫家
大貫家

 大貫家は江戸時代に、幕府や諸大名の御用商人として巨万の財を成しました。平成4年まで、広大な敷地に大貫病院を経営していましたが、老朽化や後継者の問題などで廃業し、現在はマンションになっています。岡本かの子は明治22年(1889)、大貫家の東京赤坂の別邸で生まれ、二子で育ちました。兄の雪之助の影響で文学に親しみ、跡見女学校在学中に与謝野晶子に師事し、「明星」や「スバル」に短歌を発表しました。明治43年(1910)に画家の岡本一平と結婚、翌年長男岡本太郎がここで生まれました。かの子は川端康成の指導を受け、昭和11年(1936)に小説「鶴は病みき」を発表、その後も多くの作品を発表しました。代表作に「母子叙情」「老妓抄」などがあります。昭和14年(1939)に死去。長男の岡本太郎は「芸術は爆発だ」で知られる前衛画家・彫刻家で、1970年の大阪万博の「太陽の塔」の作者として有名です。

国木田独歩の碑
国木田独歩の碑

 国木田独歩は明治30年(1897)3月に武蔵野を歩き、みぞれまじりの日に溝口の亀屋に泊まりました。当時の亀屋は萱葺の二階屋で、煙草屋を兼ねていました。泊り客は主に旅商人でした。独歩は「忘れえぬ人々」のなかで、亀屋の主人のことを忘れえぬ人々のひとりとして書いています。

 昭和9年(1934)に、亀屋の主人鈴木久吉の立案で、亀屋の前に建てられました。題字は島崎藤村により書かれました。亀屋が廃業のため、平成10年に高津図書館前に移設されました。

旧タナカヤ呉服店
旧タナカヤ呉服店

 江戸時代創業で、呉服・寝具・家具などを売っていました。蔵造りの建物は、明治44年(1911)に建てられ、関東大震災でもびくともしなかったといいます。太いケヤキの柱が90cm間隔で立ち、釘を使わずホゾで組み立てられています。出窓の扇垂木が珍しいです。

 タナカヤ呉服店の手前に明治41年創業である蔵造りの飯島商店があります。店の前には、昭和53年のNHK大河ドラマ「黄金の日日」で使われた大きな釜があります。

旧灰吹屋
旧灰吹屋

 明和2年(1765)に、大山街道沿いの溝口に開業しました。灰吹屋の薬の評判は旅人によりひろまり、富山の薬売りも溝口には寄りつかなかったといわれます。蔵造りの店は明治時代に建てられ、昭和35年まで店として使われていました。

 2代目当主の仁兵衛は、俳諧師田川鳳朗に俳句を学びました。仁兵衛が建てた「世を旅に 代かく小田の 行きもどり」という松尾芭蕉の句碑が宗隆寺にあります。

二ケ領用水と大石橋
二ケ領用水と大石橋

 二ケ領用水は、徳川家康の命により、小泉次太夫が稲毛領と川崎領の農地に水を引くために、15年を要する難工事で、慶長11年(1611)に完成しました。用水は久地の分量樋で分けられ、本流は大石橋で大山道と交差しています。大石橋の脇には、二子溝口宿の問屋を務めていた丸屋がありました。脇往還では、継立の負担も軽く二子溝口宿では人足2人、馬2匹でした。

 文政4年(1821)には、溝口水騒動があり、丸屋が襲撃されました。

溝口神社
溝口神社

 もとは赤城社と呼ばれ、溝口村の総鎮守でした。明治の神仏分離令により天照大神を祭神とする溝口神社と改められました。

 明治29年に書かれた勝海舟直筆の大幟があり、正月には掲げられます。

栄橋
栄橋

 かつて流路が変わる前の平瀬川と、円筒分水で分水された根方堀が立体交差をしていました。溝口村と下作延村の境に大山道の橋が架かっていたので、境橋と呼ばれていましたが、この地の繁栄を願って栄橋と呼ばれるようになりました。その時の親柱が保存展示されています。

 このあたりは低地で、洪水が絶えなかったので、円筒分水の工事の時に、平瀬川も流路が変更されました。

片町庚申塔
片町庚申塔

 JR南武線の大山街道踏切を越えた先に、文化3年(1806)に建てられた庚申塔があります。道標でもあり、正面には青面金剛、側面に「東江戸道 西大山道」、背面に「南加奈川道」と刻まれています。大山道はこの先、「ねもじり坂」と呼ばれる急坂を上り、梶ヶ谷、鷺沼を通って次の宿場である荏田へと続いています。

 南武線の踏切脇には、線路沿いに昭和20年代の雰囲気が残る商店街があります。

浜田庄司碑
浜田庄司碑

 庚申塔の傍にある碑は、人間国宝第一号で益子焼の陶芸家、浜田庄司の碑です。浜田庄司はこの地にあった母の実家で誕生し、大山街道ふるさと館の隣にあった和菓子屋で育ちました。「巧匠不留跡」の字は浜田庄司の筆になります。

宗隆寺
宗隆寺

 興林山宗隆寺。日蓮宗の寺院です。「新編武蔵風土記稿」によりますと、本立寺という天台宗の寺院でしたが、今から約500年前の室町時代に、住職の興林と溝口の地頭海保新左衛門尉宗隆が「日蓮宗を信じよ」という同じ夢を見たといいます。これにより、日蓮宗に改宗し二人の名前から、興林山宗隆寺となりました。

 10月に行われる御会式(おえしき)は、池上本門寺に次ぐ規模といわれています。墓地には溝口出身の陶芸家浜田庄司や、溝口の石工内藤慶雲の墓があります。灰吹屋2代目当主が建てた、「世を旅に 代かく小田の 行きもどり」という松尾芭蕉の句碑もあります。

久地円筒分水
久地円筒分水

 二ケ領用水は久地分量樋で4つの堀に分水されていましたが、正確な分水はできず水争いが絶えませんでした。そのために、昭和16年(1941)、多摩川右岸農業水利改良事務所長であった平賀栄治により、久地円筒分水が造られました。

 二ケ領用水が平瀬川の下を潜り、サイフォンの原理によって吹き上がった水を円筒の円周比により、水量の多い少ないにかかわらず、4つの堀(六ヶ村堀、久地堀、根方堀、川崎堀)に正確に分水できるようになっており、全周溢流式という円筒分水の最終進化形です。円筒分水の技術は、当時としては理想的で正確な自然分水方式で、各地で作られました。戦後、視察に訪れたGHQ(連合国軍総司令部)により、久地円筒分水はアメリカにも紹介され、ニューヨーク市立図書館に資料が展示されています。平成10年に国の登録有形文化財に指定されました。