10月21日(土)・28日(土)大山道 長津田宿を歩く(終了しました)

田奈駅(恩田川沿い)
田奈駅(恩田川沿い)

 江戸時代長津田宿は、大山道の宿場の一つとして、大山講の人々をはじめ多くの人が行き来しました。江戸時代後期、三河田原藩三宅家の藩士(後に家老)で、絵師、蘭学者の渡辺崋山が厚木へ旅に出ます。その途中長津田宿に立寄りますが、その時の様子を「游相日記」に詳しく書いています。また、江戸時代を通じて、長津田村の領主であった旗本岡野氏ゆかりの大林寺などを紹介しながら、秋の長津田を散策します。

横浜線開通時の鉄橋
横浜線開通時の鉄橋

 この鉄橋の上を走っている電車はJR横浜線。明治41年横浜鉄道(私鉄)として開業した時から利用されています。東神奈川駅から八王子駅まで路線距離42.6㎞。昭和54年10月の複線化に伴い、上り車両が通る側は新しい鉄橋になっています。

 八王子宿で織物や生糸取引に関わっていた谷合弥二、横浜の生糸売込商として知られる原善三郎、茂木惣兵衛、小野光景らをはじめとする横浜商人らを発起人として計画していた。明治41年に横浜鉄道として開業。八王子や甲信の生糸を横浜へ運搬が目的。大正6年に国有化されました。昭和16年4月に全線が電化され電車運転となりました。

片町地蔵
片町地蔵

 三体の地蔵が祀られています。「向テ右ヨリかな川 みそノ口」「南つる間 東江戸道」

 ここには加藤外記という人の碑があったといいます。加藤外記は長津田の人で、無許可で長津田より恩田に通じる道を拓いたため、領主より反逆の企ての証であるとして捕えられ、この地蔵堂の所に集められた村人の前で処刑されたといいます。

大林寺板絵(兎来画)
大林寺板絵(兎来画)

 渡辺崋山は江戸の太白堂(たいはくどう)の紹介で長津田宿在住の兎来(とらい・新倉藤七)宅を訪ねます。当初は不愛想でしたが、この旅に同行していた弟子の吾庵が「江戸で著名な絵師であり、太白堂が発行する俳句集の表紙や挿絵を描いている」と伝えると、急に接待を始めた。近所の俳句仲間、琴松(河原浅右衛門)も加わり、俳句や絵について話がはずみます。兎来は絵や俳句などで、近隣では著名な人物でした。大林寺には兎来が描いた板絵屏風2枚が現存しています。

 

大林寺
大林寺

大林寺は岡野家の菩提寺です。

 開山:元亀元年(1570)英顔鱗哲和尚

 開基:板部岡江雪融成

 宗派:曹洞宗

 本尊:釈迦如来

 武蔵風土記稿には初代岡野房恒(江雪の子)創建とあります。しかし、三度の火災により寺の創建当時を物語る原資料を失いました。父江雪三十三回忌に長津田の地に墓所を用意しました。平成20年11月7日、本堂、山門、客殿、五百羅漢堂落慶。

大林寺側の板碑
大林寺側の板碑

 道路沿いの板碑は、近隣の廃寺境内にあったものを明治34年(1901)に大林寺に移したもので、嘉元元年(1303)の緑泥岩の板碑です。阿弥陀如来を念ずる人々を極楽に導き地獄には落とさないという慈悲の大きさを表現し、念仏した後に唱える回向文であるといいます。

岡野家代々墓所
岡野家代々墓所

 板部岡江雪は鎌倉北条得宗家 北条高時の二男相模次郎時行の子孫といいます。父の代から小田原北条氏に仕えた江雪は、四代氏政の命で板部岡を名乗りました。文筆に優れ、知慮深く、清廉潔白なので政務に登用、評定頭人の列に加わり、伊豆七島の代官も兼ねました。和睦交渉、降伏の説得を得意としました。小田原合戦時、秀吉は江雪の忠義に感じ入り、家来として岡野を名乗らせました。秀吉の死後は徳川に仕え、関ヶ原、上杉攻めにも加わり、長男の岡野房恒が長津田初代領主となりました。その後、岡野家は十二代由成が慶応四年(1868)に領地を返上するまで、280年にわたり旗本として長津田を知行しました。

王子神社
王子神社

 江戸初期長津田初代の領主岡野房恒の創建といわれ、大石神社とともに長津田の鎮守となりました。社号は王子権現、明治になって若一王子神社。昭和十八年、村社への昇格を申請した時に王子神社と改めました。

 祭神:伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と速玉男之命(はやたまおのみこと)。

福泉寺
福泉寺

 古義真言宗、恩田村徳恩寺の末寺。山号は薬王山。本尊は薬師如来。岡野房恒の開基で王子神社の別当、岡野家の加持祈祷寺。朱印地4石5斗

天王社
天王社

 牛頭天王宮(ごずてんのうぐう)といい、京都八坂神社からの勧請。享保年間、疫病が流行り一生懸命祈願したと古文書にある。岡野家が長津田を支配する前に引田家が存在し、その引田家の祖先を祀ったものだといいます。

二十三夜塔
二十三夜塔

 弘化2年巳9月23日 台石に中村講中とある。18世紀の後半から昭和初期にかけて日本の各地では「講」を組織した人々が集まり月を信仰の対象として精進、勤行し、飲食をしながら月の出を待つ「月待ち」の行事が行われていました。特に普及したのが二十三夜に集まる二十三夜行事です。

 講に集まった人々が建てた二十三夜塔は全国の路傍などに多く見られます。二十三夜塔の本尊は智慧の光であらゆるものを照らし、苦しみを離れ衆生に力を得させるといわれる勢至菩薩。文字塔と刻像塔があり、刻像塔は勢至菩薩が多く、文字塔には「念三夜」と刻むものもあります。現在はこの場所で近在の人たちが「どんど焼き」を行っています。

林地蔵
林地蔵

 長津田には地蔵が多く37体あります。(念仏供養5体・念仏と庚申供養を兼ねたもの3体・愛児や親族の冥福を祈るもの15体・厄除け長寿3体・その他7体)

 この塔は伯楽谷戸と後谷戸の念仏講の女性たちで建てたもので、信仰だけでなく女性の社交の場としての講であったと思われます。

上宿常夜灯
上宿常夜灯

 秋葉山講中の人々によって、天保14年(1843)に建てられました。大石神社の女坂下の大山道と神奈川道の交差・分岐するところにありましたが、道の拡張に伴い、現在の地に移動しました。

大石神社
大石神社

 御神体は大きな石です(幅110cm、高さ135㎝の安山岩)。

 伝説では、在原業平が東国へ下向したおり、国境近くの山中にさしかかると火をかけられ、死して石になった」といわれます。

 この大石は元々、瀬谷村と長津田村の境(武相国境)にあり、両村で所有権争いをしていましたが神意で大石が倒れた方の勝ちと決め、長津田村の方に倒れたので長津田へ運んで祀ったといわれています。

 元禄期また宝暦期に長津田領主岡野家が修復、王子神社と同じく長津田の鎮守です。

乾繭倉庫跡
乾繭倉庫跡

 長津田の乾繭倉庫は、昭和4年に落成しました。繭を乾燥させる(熱を加える)ことで繭の中の蛾を殺し、かつ、長期保管することが目的でした。さらに、乾燥させて長期保存することで、繭の値動きを見ながら値の高い時に出荷することを目的としていました。