7月5日(木)・10日(火)横浜道からYOKOHAMAへ(終了しました)

 1858(安政5)年、幕府は日米修好通商条約を締結、神奈川(横浜)の開港を翌年6月と定め、諸外国の反対をよそに、横浜村での開港場建設を急ピッチで進めました。当時、東海道筋から横浜への交通は非常に不便であったため、芝生村(しぼうむら・現浅間下交差点付近)から岡野、平沼新田を経て戸部村まで一直線に通じる道路を築くと共に、新田間、平沼、石崎の三つの橋と、更に野毛山を切り開き、野毛橋、吉田橋を架け、工期3カ月で新道(しんみち)を完成させました。幕府にとって国家の威信をかけた大事業であったと言えます。以降、「横浜道」は明治前半期まで新開地横浜への表街道として賑わい、この道を通って西洋の物資や文化が全国に伝えられて行きました。しかし狭く急坂が多いため、増加する貿易とそれに伴う大量の物流に対応できなくなります。1869(明治2)年には、より海岸部に平坦な道路が造成され、更に1872(明治5)年に鉄道が開通した結果、幹線としての大きな役割を終えます。本日は、横浜道とその周辺の史跡を訪ね、激動の時代を切り拓き、国際都市YOKOHAMAの礎を築いた先人達に想いを馳せて頂ければ幸いです。

上台橋(かみだいばし)

かつて、このあたりは「袖ヶ浦」と呼ばれた内湾で、風光明媚な潮騒の聞こえる海辺の道でした。「神奈川駅中図会」はこの辺りから見える朝日を美しく描いています。1930(昭和5)年、切通しの道路の上に橋が架けられました。

勧行寺(かんぎょうじ)

法華宗、山号は学陽山。1595(文禄)4年、日養が開山。境内は木々に囲まれて静寂さが漂います。天然理心流の開祖近藤内蔵之助長裕の墓(供養塔)があり、新選組隊長近藤勇は4代目にあたります。

浅間神社

社殿のある丘は通称「袖すり山」と呼ばれ、すぐ下には「袖ヶ浦」の美しい入江がありました。1080(承暦4)年に富士浅間神社の分霊を祀ったと伝えられ、立地から多くの旅人が旅の安全を祈願していたようです。江戸時代この辺りは芝生村(しぼうむら)と呼ばれ、東海道沿いの立場として栄えました。江戸名所図会には、長谷川雪旦の挿絵とともに「芝生村海道の右の方、山の中腹にあり」と記されています。

横浜道入り口

横浜道の建設は日米修好通商条約の締結直後から検討されていたようで、その年の10月下旬の井伊家文書の記録の一つに、「帷子川沿いに新道を作る」と記されています。開通後の様子について、横浜開港見聞誌(1862(文久2)年/橋本玉蘭斎(貞秀)編)は、「その初めを出す所は、東海道神奈川西の宿はずれに芝生村と青木村の間より海手に入る行程。左の方は磯うつ波」と伝えています。

元平沼橋(旧平沼橋)

浮世絵にも描かれている長さ35間(約63)、幅3間(約6ⅿ)由緒ある橋。岡野新田と平沼新田の間に架けられていました。1928(昭和3)年にJR・相鉄をまたいで新しく造られた橋に名前を譲り、現在は元平沼橋と呼ばれています。平沼新田は1839(天保10)年、保土ヶ谷宿で酒造業を営んでいた5代目平沼九兵衛が開発に着手し、3代に亘って約35万㎡を埋立てました。

2代目横浜駅基礎遺構

2代目横浜駅は、スイッチバック方式だった初代横浜駅(現桜木町駅)からの不便さを改善するため、1915(大正4)年に開業しました。煉瓦造りでネオルネ(ッ)サンス様式の風格ある建物で、2階に出札口と改札口がある橋上駅舎でした。恐らく日本で最初の橋上駅舎のようです。開業して8年目の1923(大正12)年、関東大震災で被災し取り壊されました。現在の横浜駅の場所に3代目横浜駅が誕生するまでの僅かな期間であったため、「幻の横浜駅」とも呼ばれます。

野毛の切通し

横浜道最大の難所。石崎橋から野毛橋までの野道を切り広げる「戸部村外二ケ村地内新道切開古道切広」の工事により完成しました。しかし、明治に入り貿易が盛んになると、大量の物資がここを通るようになりました。狭く急坂だったため、繰り返し改修工事が行われましたが不便さは解消できませんでした。更に、1868(明治元)年7月に戸部役所が廃止され、その後鉄道が開通するなど、行政や交通インフラが変化するなか、野毛坂の役割は徐々に低くなってゆきます。左右の擁壁は1928(昭和3)年の築造で、関東大震災の復興時に積まれた四角い石積(間知石風割石練積)です。

紅葉ヶ丘

1928(昭和3)年(町界町名地番整理事業を実施)に、紅葉坂上の丘陵地であることから名付けられました。現在は、図書館、音楽堂、能楽堂など文化ゾーンとして親しまれています。

1)神奈川奉行所跡

横浜開港に備えて置かれた奉行所の跡。開港直後の1859(安政6)年64日に開設。開港準備を担当してきた5人の外国奉行全員が神奈川奉行を兼任し輪番で行政事務にあたりました。戸部役所と運上所で、戸部役所は租税の徴収や裁判などの内政事務を、運上所は税関と外交事務をおこないました。

2)紅葉坂

300mの赤レンガの坂道。1872(明冶5)年、坂道の両側に紅葉(楓)が植樹されたことから名付けられました。有島武郎は西区で少年期を過ごし、「或る女」に紅葉坂が登場しています。

3)鉄道山(現掃部山公園)

江戸時代には不動山、明治の初めには鉄道山と呼ばれていました。鉄道建設の時、来日した外国人技師の宿舎がこの付近にあり、鉄道開通後もここの湧き水が鉄道用水として利用されました。鉄道山が掃部山に変わったのは1884(明治17)年。旧彦根藩の有志が、横浜開港に尽力した元藩主の大老井伊掃部頭直弼の記念碑建設のために購入し、この山が井伊家の所有になってからです。1914(大正3)年に土地(4,278坪)と銅像などが市へ寄付され、掃部山公園として公開されました。なお、湧き水は枯れることなく今でも東側の崖下から噴出しています。