9月24日(火)・26日(木)                 旧東海道 新橋から日本橋を歩く      (終了しました。)

 1590年(天正18)小田原北条氏が滅び、徳川家康は豊臣秀吉から北条氏の旧領である関東への移封を命じられる。家康は81日江戸に入府し、江戸城築城の準備に取り掛かり、同時に城下の整備にも着手した。神田山を取り崩して日比谷入り江を埋め立て、城下への輸送路としての堀を掘削し海上輸送路の整備を行った。江戸の町づくりに欠かせない様々な公共事業を実行に移していく中で、1601年(慶長6)江戸と各地を結ぶ五街道の整備に着手、宿駅伝馬制度を設けた。五街道とは東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道を指し、その五街道の起点となる日本橋には、参勤交代の大名や庶民が行き交った。橋のたもとには高札場や魚市場が置かれ、街道の両側には多くの商家・両替商が軒を連ねて江戸の中心地として大いに賑わった。

1872年(明治5)に鉄道が開業した新橋から、旧東海道である銀座中央通りを日本橋まで歩く。

 

 

旧新橋停止場 鉄道歴史展示室
旧新橋停止場 鉄道歴史展示室

 【旧新橋停車場】

  1872年(明治5)、新橋~横浜間に日本で最初の鉄道が開業。近代日本の夜明けを象徴する駅舎がこの地に建設された。駅舎の設計はアメリカ人RP・ブリジェンスで木骨石張りの2階建て。横浜駅(現桜木町駅)と同じ設計である。鉄道建設はイギリス人技師のエドモンド・モレルに委嘱し、機関車もイギリスから輸入した。新橋~横浜間を19往復、53分で結び、殖産興業の要として活用、明治以降の日本の近代化を推し進めていった。開業時の運賃は上等が1125厘、中等が75銭、下等で375厘と高額であった。

 

1914年(大正3)に東京駅が新設され、路線変更により烏森駅が新橋の名を引き継ぎ現在の新橋駅となる。初代新橋駅は貨物線の専用駅「汐留駅」と改称され、物流の大拠点となるが1923年(大正12)の関東大震災で焼失。1986年(昭和61)、汐留駅は廃止された。

 

【新橋】

 1601年(慶長6)に定められた東海道は、3年後に増上寺前の浜辺を埋め立て日本橋まで延長された。この時に汐留川に架かる橋を新橋と名付けたといわれる。その後芝口橋となる。1932年(昭和7)、震災復興の一環で、大規模な町名整理が行われ、新橋1丁目から7丁目が成立した。 町名としての「新橋」はこの時が最初である。

 汐留の地名は汐留川に由来し、江戸の上水の水源である溜池に、潮の干満の影響が及ばぬように土橋辺に堰を造り、海からの汐水を止めたことに由来する。

 

芝口御門跡
芝口御門跡

【芝口御門】

1710年(宝永7)、新井白石は朝鮮通信使の来朝に備え、日本の威光を顕示するために新たな城門の建設を六代将軍徳川家宣に建言する。「西郭のみいまだ国門あらざる(折りたく柴の記)」旨を言上し、建設が決まる。汐留川に架かっていた新橋の北詰に建設された御門は芝口御門と呼ばれ、新橋は芝口橋と改称される。芝口御門は1724年(享保9)に焼失するが再建されることはなく、石垣も撤去され、芝口橋は元の新橋の旧称に復した。

 

商法講習所跡
商法講習所跡

商法講習所】

 文部大臣の森有礼は、アメリカ公使だった頃、我が国に商業教育の速やかな育成を感じ帰国後、1875年(明治8)銀座尾張町の鯛味噌屋で私設の商法講習所を始める。翌年木挽町の森の自宅内に移転した。アメリカの商業学校の校長ウィリアム・ホイットニーを教師として招き、英語の教本を用いて英語で授業を行ったといわれる。翌年東京府へ移管され、1883年(明治16)農商務省へ移管を開始、移管完了とともに東京商業学校と改称、現在の一橋大学に至る。

 

【銀座ガス灯通り】

中央通りから一本有楽町側の通りで4丁目から1丁目まで続く、道の両側にガス灯が設置されている。今から34年前に3丁目の有志(「白いバラ」「ハゲ天」「煉瓦亭」店主など)が相談して名付けたといわれている。それまでは4丁目は「文化通り」、2丁目は「観世通り」と呼ばれていたが、いつの間にか1丁目から4丁目までが「ガス灯通り」と呼ばれるようになった。1874年(明治7)芝・金杉橋から京橋まで85基のガス灯が設置された。現在3丁目にある4基のガス灯は1985年(昭和60)に復元されたもの。ガスは芝浜崎町のガス製造工場(現東京ガス本社)から供給された。ガス灯の嚆矢は1872年(明治5)横浜馬車道から本町通りにかけて10数基が設置されたのが始まりである。

              【銀座ガス灯通り風景】

銀座発祥の地碑
銀座発祥の地碑

銀座発祥の地】

 1612年(慶長17)、銀座役所・常是役所が駿府より江戸へ移転される。銀座役所は銀地金の調達や銀貨を幕府へ上納する役目を担当し、常是役所は銀貨の品位を保証する極印打ちを任されていた。江戸金座が既に「両替町」と呼ばれていたことから、江戸銀座は「新両替町」と称するようになった。1800年(寛政12)に蛎殻町に銀貨鋳造機能を移転するまでこの地に銀座が置かれていた。

現在の銀座1丁目から4丁目を江戸時代には新両替町と呼んでいたが、明治2年に「銀座」が正式地名になる。その後、尾張町、三十間堀町、出雲町、鎗屋町などが58丁目になり、銀座8丁が完成する。

 

銀座煉瓦の碑
銀座煉瓦の碑

【煉瓦銀座の碑】

 明治5年、銀座が大火事で焼失。当時の東京府知事由利公正は銀座全域を不燃化することを計画し、煉瓦造り二階建て洋風建築の銀座煉瓦街が建設され、煉瓦通りと呼ばれた。以後、この煉瓦街と柳の街路樹が銀座の名物となった。床に敷かれた煉瓦は発掘されたもので、フランス積みで再現されている。そばのガス灯の燈柱は明治7年のもので、燈具は忠実に復元されており往時を偲ばせる。

 

石造親柱
石造親柱

【京橋の親柱】

 京橋は日本橋から東海道を京へ向かう最初の橋だったことから名付けられた。橋が造られた時期については様々な説があるが、慶長年間(15961615)と考えられる。その後幾度か架け替えられ、明治8年には石造のアーチ橋へ、明治34年には鉄橋となるが、昭和38年~40年に京橋川が埋め立てられたときに撤去された。現在は2基の石造親柱(明治8年)と1基のコンクリート造(大正11年)の親柱が残されている。

 

大根河岸・青物市場跡碑
大根河岸・青物市場跡碑

【大根河岸・青物市場跡】

 もともとは数寄屋橋あたりに形成されていた青物市場が火災に遭い、水運の便が良い京橋川の北西沿岸に移転したことに始まる。この河岸地では大根の入荷が多かったことから大根河岸と呼ばれたが、関東大震災の後に中央市場が築地にできたことにより、大根河岸も昭和10年に移転した。京橋川沿いにはその他、白魚河岸、薪河岸、竹河岸があり、舟運の中心として栄えた。

 

江戸歌舞伎発祥の地碑
江戸歌舞伎発祥の地碑

江戸歌舞伎発祥の地】

 江戸歌舞伎は1624年(寛永元)、猿若座の猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が中の橋南地に櫓を上げたのが始まりといわれる。歌舞伎は出雲の阿国が京都加茂川の河原で始めたかぶき踊りが最初といわれるが確証はない。延宝の初め頃(1670年代)、江戸歌舞伎は中村座のほか、市村座、森田座、山村座の四座が官許の芝居小屋として認められ、荒事の市川團十郎、やつし事の坂田藤十郎などの活躍もあり庶民の人気を博していく。天保の改革によって1841年(天保12)、歌舞伎3座を含むと芝居小屋5つが猿若町(浅草)に強制移転させられた。

 

千葉定吉道場跡碑
千葉定吉道場跡碑

【千葉定吉道場跡】

 千葉定吉は北辰一刀流の創始者千葉周作の弟で、北辰一刀流の使い手として知られる。周作の千葉道場は神田お玉ヶ池で隆盛を極めるが、その立ち上げに尽力した後、自身もこの地付近に道場を構え、「小千葉道場」と称される。嘉永6年(1853)、剣術修行に江戸へ出てきた坂本龍馬は定吉の門に入り、定吉の息子千葉重太郎のもとで修業に励み、1858年(安政5)には定吉から「北辰一刀流長刀兵法」の目録を伝授される。

 

ヤン・ヨーステン碑
ヤン・ヨーステン碑

【ヤン・ヨーステン碑】

 ヤン・ヨーステンはオランダの航海士で、イギリス人のウイリアム・アダムス(三浦按針)と一緒にオランダ船リーフデ号で航海中、1600年に豊後に漂着した。徳川家康に海外の情報を伝え信任が厚かったが、東南アジアから帰国の途中、遭難し死亡する。江戸城の内堀に屋敷を与えられ(和田倉門辺り)、日本人と結婚して「耶楊子(ヤヨウス)」と名乗った。住居地が八代洲と呼ばれ、後に八重洲の地名になったといわれる。明治時代までは東京駅の西側(現丸の内)も八重洲であったが昭和29年以後、東京駅の東側が中央区八重洲となる。

 

江戸秤座跡碑
江戸秤座跡碑

【江戸秤座跡】

江戸幕府を開いた家康にとって度量衡の統一は大きな課題であった。重さの基準である秤量の統一を図るため、1653 (承応2)江戸幕府は秤座を設置し秤の製造、頒布、修理、検査などの独占権を東国33か国は江戸の守随家、西国33か国は京都の神家に与える。江戸秤座の位置は現在の中央区内で移転を繰り返しているが、1842年(天保13)以降はこの箔屋町にあった。これは明治8年、明治政府の「度量衡取締条例」が発せられるまで続いた。また、容積の基準となる江戸の枡座は家康入府の1590年(天正18)に作られた。1669年(寛文9)には新京枡を正式な枡として定め、江戸は樽屋に、京都は福井作左衛門に独占的な製造・販売・検定の権利を与え全国の統一を図った。

 

 

北町奉行所跡
北町奉行所跡

【北町奉行所跡】

 この地は1806年(文化3)から北町奉行所が置かれ、幕末まで南町奉行所とともに江戸の行政・治安・防災を担った。町奉行は寺社奉行、勘定奉行と並び三奉行と称される。旗本が就く最高位の役職で、北町奉行の遠山左衛門尉景元や南町奉行の大岡越前守忠相が有名。月番制で北町奉行所と南町奉行所が交代で業務を行っていた。民事訴訟に関することは月番が交代で受け付けるが、刑事事件の処理に関しては一貫して同じ奉行所が担当する。一時期中町奉行所が置かれたこともあるが、これは業務の補助的な役割であったと考えられている。1806年(文化3)以降、呉服橋門内が北町奉行所、数寄屋橋門外(現有楽町駅)が南町奉行所として固定した。各町奉行の下に与力が25名ずつ、同心が100名ずつ在籍していた。僅か250名で江戸の町の行政、治安、防災を担っていたが、幕末のころには同心が南北各140名、合計280名に増員されている。

 

常盤橋公園
常盤橋公園

【常盤橋公園】

江戸城の常盤橋御門があった場所。常盤橋御門は江戸城の大手門に通じる外郭門で日光や奥州へと通じる重要な門でもあった。1629年(寛永6)に建造される。田安門、神田橋門、半蔵門、外桜田門とならび、江戸五口のひとつで交通の要衝としてだけでなく、城塞の防衛面でも重要視され、幕府の役人が常駐していた。橋自体は明治6年に取り壊されたが、残された枡形門の石垣は国の史跡に指定されている。この場所は昭和8年に渋沢栄一記念財団によって復旧され、旧東京市の公園となった。常盤橋は東京で最古(明治10年)の石造アーチ橋であるが、東日本大震災で落橋の危険が生じ現在修復工事中。

 

日本銀行本店
日本銀行本店

【日本銀行本店本館】

 日本銀行は1882年(明治15)日本橋箱崎町に開業したが、手狭になり1896年(明治29)、現在の地(日本橋本石町)に移転した。この場所は江戸時代の金座跡で、建築家辰野金吾が設計したネオ・バロック様式の建造物は国の重要文化財に指定されている。(初代日本銀行は旧北海道開拓使東京出張所で、辰野金吾の師、ジョサイア・コンドルが設計した。

金座は当初、専門の製造所を設置しない「手前(てまえ)吹き(ぶき)」で、小判師が自宅で小判のもととなる原判金を作り、幕府の御金改役(ごきんあらためやく)である後藤庄三郎光次が極印を打っていた。元禄の改鋳後は江戸を本局、京都と佐渡に出張所を置く集中生産体制に改められた。幕府の崩壊後、金座は銀座とともに明治新政府に接収され、1869(明治2)造幣局の設立によってその歴史を閉じる。

 

迷子しらせ石標
迷子しらせ石標

【一石橋迷子しらせ石標】

1857年(安政4)、日本橋西河岸町の人たちが資金を出し合って建立。石標の正面には「まよひ子のしるべ」、両側に「たずぬる方」「しらする方」と刻まれ、迷子の特徴を書いた紙を貼って迷子の探索に使用した。安政の大地震で親とはぐれた子供の探索などに使用された。石標はこの他、両国橋、湯島天神や浅草寺などにも設置されていた。

 

ちなみに一石橋の名は、金座支配の後藤庄三郎と呉服町頭取の後藤縫殿助の名から付けられた(五斗+五斗=一石)。

 

【日本橋】

 日本橋は1603年(慶長8)、日本橋川に木橋が架けられたことから歴史が始まる。旧東海道は設置された慶長6年には芝が起点だったが、3年後日本橋まで延長される。そして日本橋が旧東海道の起点となり、同時に五街道の起点となった。現在の日本橋は1911年(明治44)石造二重アーチ橋として建造された20代目の日本橋である。設計は横浜赤レンガ倉庫や横浜正金銀行を設計した妻木頼黄(つまきよりなか)である。

 

日本橋の西側南詰には高札場、北詰には五街道の起点を示す道路元標のレプリカが展示されている。東側北詰には魚市場があり、関東大震災後、築地に移るまで江戸の食を支える市場として栄えた。

 

同南詰からは人力車が運行していたといわれる。日本橋は北側の室町と南側の通町を結び、町人や大名行列が行き来し、商家の大店や両替商が軒を並べる江戸の中心地であった。江戸の町木戸は明け六ツ(午前6時)に開門され、夜四ツ(午後10時)に閉門となるが、日本橋の大木戸だけは明け七ツ(午前4時)に開門され人々が動き出す。

 

   【現在の日本橋風景】       【高札場跡】      【道路元標レプリカ】