11月26日(火)                       後北条・武田の境目の城~城山・津久井城跡ハイキングコース   ★小雨中止(健脚コース)(終了しました。)

 

津久井城は自然の地形を巧みに利用して築かれた山城です。「新編相模国風土記稿」によると城が築かれたのは鎌倉時代とされていますが、現在みられる遺構は戦国時代(16世紀)に使用されていたものと考えられています。16世紀の関東は北条早雲(伊勢宗瑞)や武田信玄、上杉謙信といった戦国大名が覇権を争っていた時代です。当時の津久井地域は後北条氏の勢力下にあり領主であった内藤氏は後北条氏の重臣でもありました。津久井城は小田原城を本城とした後北条氏の支城として甲斐の武田氏との領国の境目を守り、また津久井地域の統治の拠点となる支城として重要な役割を担っていました。

 

 

 

  津久井湖観光センター

 昭和44年(1969)春、鉄筋コンクリート造2階建ての観光センターは津久井湖が一望できる高台にオープンしました。周辺には花の苑池などもあり、物産展示や売店などがある同センターは津久井湖観光の中心施設としての役割を担っています。

 

②湖畔展望園路(津久井湖の誕生)

 城山ダムの建設をはじめとする相模川総合開発計画は昭和30年(1955)に神奈川県によって基本構想が示されました。城山ダムによる水没地域は郡内311地区に及び、津久井町だけでも荒川116世帯、三井45世帯、不津倉27世帯、三ヶ木8世帯、川坂7世帯が集団移住することとなりました。城山ダムは昭和37年(1962)に着工、昭和40年(1965)に完成し津久井湖が誕生しました。

 

③パークセンター

 平成18年(20064月にオープンした同センターは公園利用者の休息、案内、情報提供、また自然や歴史活動にかかわる皆さんの活動拠点として、展示・解説、調査の速報などを行っています。

④城坂橋(牢屋の沢)

 「牢屋の沢」は御屋敷一帯を守る自然の堀になっています。江戸時代には陣屋の水牢(水で罪人を苦しめる牢屋)があったとされ、それが名前の由来になったと考えられています。古老の話によると沢が二又に分かれるあたりに水牢があったとのことです。

 

 

⑤発掘現場

 平成7年(1995)城主の居館跡と伝承されてきた「御屋敷」という曲輪を調査するための調査団(団長/東海大学石丸煕教授)が組織されました。当時から御屋敷には木立の中に「津久井城山を愛する会」の小屋があり、調査団はそこを拠点として借りて発掘調査をはじめたそうです。この調査は相模原市に引き継がれ現在でも毎年今までの調査結果や伝承などに基づいて発掘調査が行われています。

展望広場

 眼下に城主の内藤氏お屋敷跡、その先に根小屋の大地、更に雨乞岳、南山、遠くに丹沢山塊が眺められます。陽だまりでもあり椅子とテーブルがあり、休憩場になっています。

 

車坂(男坂)

 城山に登るには距離は短いが坂がきつい車坂(男坂)と廻り道しながら時間をかけて登る女坂があります。車坂の左尾根筋には本城曲輪に通じる大手道があったことが確認されています。

 

 

⑧家老屋敷

 家老屋敷は三角形の曲輪で、山の斜面を削り出して平たく造成しています。曲輪の両裾には戦国時代の石垣が残っています。家老屋敷の下方には曲輪がさらに2段並んで造成されています。

 ⑨太鼓曲輪

 しゃもじの形に削られた平場が太鼓曲輪。飯縄曲輪方向に対する防御を固めていて、広くなった部分は東側を土塁で囲み斜面を急角度に削り落し切岸としています。太鼓曲輪の西側は「剣先」と呼ばれその先は堀切となり本城曲輪へは堀切を渡っていくことになります。現在、本城曲輪に登る道は南側につくられていますが、当時の坂道は北側の急斜面を登っていきます。太鼓曲輪という伝承名は陣太鼓を打ち鳴らしたことが由来するのでしょうか。山麓の功雲寺には城主内藤氏が寄進したとされる陣太鼓が所蔵されています。

⑩堀切

 尾根や台地の鞍部に敵の移動を妨げる目的で通路を遮断するようにV字に掘られた堀。

 「古地図」には橋が描かれていることから、非常時には簡単に取り壊したり移動したりすることができるものだったと思われ、敵が攻めてきた際には橋を手前に引いて敵を渡らせないようにしたものと考えられます。

 

⑪本城曲輪(城山山頂)

 本城曲輪は津久井城の中心で戦時に城主や兵がたてこもる最後の砦です。周囲の尾根には何段もの連続する小曲輪や虎口、また麓まで続く長い竪堀が掘られるなど、とても堅固な作りになっています。中央の土塁に囲まれた狭い空間が「本城曲輪」です。その周りには「土蔵」「米曲輪」「米蔵」「松尾米蔵」などと呼ばれる曲輪があり、戦国時代当時に、どこに何があったかを知る手がかりとなっています。また北東側の曲輪には井戸の跡も残っています。発掘調査の結果「もん」と呼ばれていた場所からは曲輪への入り口施設(石敷きの階段や門の基礎石)が見つかっています。

⑫築井古城碑

 城山西峰山頂の本城曲輪後に流麗な文体と書体の古城碑があります。城主内藤氏の

 家臣の末裔、根小屋村名主島崎律直氏により文化13年(1816)頃建立されたもので、津久井域の地形、沿革、内藤氏の系譜の一説、建碑の由来が当時の一流名士が関わり記されています。

 

⑬飯縄神社

 飯縄神社は「飯縄権現」を祀っています。飯縄権現は不動明王の化身で軍神として戦国武将に受け入れられていました。後北条氏は関東の飯縄権現信仰の中心地である高尾山を厚く庇護しており、津久井城でも同じように祀られたと考えられます。現在でも農耕や火除け、商売繁盛などの神として信仰されています。「飯縄神社」を中心とする曲輪群は天狗山とも呼ばれています。

 

⑭鐘撞堂(烽火台)

 飯縄権現の南側の曲輪は、鐘撞堂とも烽火台ともいわれています。烽火(狼煙も書く)も鐘も、ともに当時の情報伝達手段でしたので、烽火台として使われていたかもしれません。

 さらに南側の曲輪は「みはらし」といわれ、付近一帯の眺望が開ける場所です。

 

⑮宝ヶ池

 宝ヶ池は津久井城の水の手(溜池)の一つです。水は、戦はもとより城中の生活に書くことのできないものです。「新編相模国風土記稿」は「水が白く濁っていることから城兵が刀を研いだという伝説がある」と伝えています。池は現在でもかれることなく水をたたえています。

 

 ⑯大杉

 津久井の名木で樹齢推定90年、樹高約25mの大杉です。平安後期武士が台頭した時代から城山東峰の山頂付近にあり内藤氏の時代には樹齢40年の巨木で津久井地域や関東平野の変遷を見守っていたわけです。パワースポットにもなっていたのですが、

 残念ながらの平成25年(2013)8月の落雷により焼失しました。

 

⑰江川ひのき林

 駿府から江戸に移った徳川家康は江戸城の普請を進める一方で江戸の街の建設も急速に進めたため建設資材や生活必需品として大量の木材や炭が必要となり、また治水や治山のため江戸周辺の山林を自ら手厚く管理したようで、津久井城も小田原合戦による落城後「城館」としての役割を終え全山にわたって植林されたものと思われます。同時に御林として幕府の管理下におかれます。当時の植林は成長が早く燃料として使用するマツや雑木が中心だったようで、幕末になって用材としても使用できるヒノキも植林されるようになったそうです。国道413号から見えるひとかたまりの針葉樹林は幕末の代官、江川太郎左衛門英龍の指導により植林された「江川ヒノキ」です。

 

                雨の中お疲れ様でした。

   <功雲寺>     <伝内藤家の墓>    <最後まで元気な皆様>