12月12日(木)・17日(火)                 橘樹郡衙跡と古刹影向寺~古代歴史ロマンがあふれる橘樹の里~ (終了しました。)

 

平成8(1996)627日午前10時、橘樹郡家(郡衙)1300年の眠りから目を覚ましました。千年伊勢山台から東西南北の方位に整然と並ぶ複数の掘立柱建物跡が発掘されたのです。橘樹郡家の正倉跡と想定されました。今から約1300年前の7世紀後半、大和の都から遠く離れた南武蔵の橘樹の地に、白鳳文化が花開きました。

 現在の川崎市高津区千年から宮前区野川にかけて、7世紀後半に橘樹郡の役所である郡家が設置され、郡の寺である影向寺が開かれました。影向寺は関東地方屈指の古刹であり、連綿として今に法灯を伝えています。橘樹郡家の発掘調査は川崎市教育委員会により、今も続けられています。いつの日か、橘樹郡家の全貌が明らかになるでしょう。

 古代の歴史ロマンあふれる橘樹の里を歩いて、白鳳時代にタイムスリップして、先人たちの心に触れてみました。

 

発掘担当者による現地解説
発掘担当者による現地解説

①橘樹家郡家 平成8(1996)6月、宅地造成工事に先立って行われた千年伊勢山台北遺跡の発掘調査で、東西方向に並んだ7棟の総柱式掘(そうはしらしきほっ)立柱(たてはしら)建物跡が発掘された。税として納められた稲を収納する橘樹郡家の正倉であるとされた。古代の橘樹郡は現在の川崎市とほぼ同じ範囲であり、古代の影向寺とともに、橘樹郡の政治・経済・文化の中心地として重要な遺跡です。郡家の主要施設には正倉以外に、中心となる政庁、宿泊施設である(たち)、厨房施設である(くりや)がある。平成10年から発掘範囲を広げ、大型掘立側柱建物跡が見つかり、館であると推定された。また、真北から西へ2030度ほどずれている建物群が見つかり、これは7世紀後半の最も古い時期のものと推定されている。郡家の中心である政庁はまだ確認されていないが、現在でも発掘作業は続けられており、いずれ全貌が明らかになると思われる。歴史公園に正倉の建物を復元する計画もある。川崎市では初の国史跡に指定された。

                  <発掘現場風景>

 

木造薬師三尊像
木造薬師三尊像

 

     (よう)向寺(こうじ) 威徳山影向寺 天台宗

 

江戸時代に編纂された『影向寺仮名縁起』によれば、天平時代に聖武天皇が光明皇后の病気平癒のために、行基に命じて建立されたとある。発掘調査により、大型掘立柱建物跡や、「无射志(むさし)国荏原評」とヘラ書きがある瓦、都筑郡を表す「都」とヘラ書きされた瓦などが発掘された。大宝元年(701)の大宝律令により、「評」が「郡」と変更されているので、7世紀後半に古代の影向寺が創建されたと推測されている。8世紀前半に現在の薬師堂の位置に金堂が再建され、三重塔が建立されたと推測される。奈良の当麻寺の三重塔(東塔23.4m、西塔25m)と同規模と推定される。元禄7(1694)に清沢村(現・高津区千年)の木嶋長右衛門を棟梁として、現在の密教本堂様式の薬師堂が建てられた。本尊である薬師三尊像(国重要文化財)の薬師如来坐像はケヤキの一木造りで、像高139cm11世紀後半の作と推定。脇侍の日光・月光菩薩立像はサクラの一木造りで、像高171cm

    <薬師堂の礎石>       <大銀杏>       <三重塔の心礎>

 

能満寺境内
能満寺境内

 

 ③  (のう)満寺(まんじ) 星王山寶蔵院能満寺天台宗

 

 行基により創建と伝わる。影向寺の塔頭のひとつであったといわれる。現在の本堂は、影向寺薬師堂建立の際に棟梁を務めた木嶋長右衛門により元文4(1739)に建てられた。本尊の虚空蔵菩薩立像は、割矧ぎ造り、玉眼、彩色。像高95.6cm。頭部内側の墨書銘から鎌倉仏師(ちょう)(ゆう)により、明徳元年(1390)に造られたことがわかる。県重要文化財。朝祐は鎌倉の覚園寺の十二神将像や伽藍神像、日光菩薩像を造ったことで知られる。能満寺には他に平安時代前期(10世紀前半)の作と推定される聖観音菩薩立像と江戸時代の作である増田孝清坐像がある。ともに川崎市重要歴史記念物。

 

野川神明社
野川神明社

 

  野川神明社 建年代は不詳。江戸時代には韋駄天社と称されていた。明治3(1870)に八幡神社が併合し神明社となり、野川村の総鎮守となった。境内から弥生時代の墓地である方形周溝墓が4基発掘された。その中の3号墓は溝の一辺が17m、溝幅が2m、深さ80cmと大形であった。縄文時代前期の住居跡も発見されており、弥生時代の墓地になる前は、縄文時代の集落であったと推定される。

 

西福寺古墳全景
西福寺古墳全景

 

  西福寺古墳 昭和57(1982)の発掘調査により、築造時期は5世紀後半から6世紀初頭と考えられる。直径35m、高さ5.5mの円墳で、深さ7080cmの周溝がめぐらされている(現在コンクリートブロックで舗装されている部分)。周溝の中から多量の円筒埴輪の破片と水鳥の頭部と思われる形象埴輪が発見されている。築造当初は周囲を埴輪が取り囲んでいたと推定される。石室部は未発掘であるが、すでに盗掘されていると思われる。神奈川県史跡。

                <西福寺古墳周辺>

 

馬絹古墳全景
馬絹古墳全景

馬絹古墳 昭和46(1971)に発掘調査が行われたが、すでに盗掘されており、副葬品は何も無かったが、鉄釘が79本も発見された。鉄釘の多さから棺は複数あったと思われる。直径33m、高さ約6mの円墳で、墳丘の周囲には幅3.5m、深さ1.5mほどの周溝がめぐらされている。墳丘の表面には葺石が敷きつめられていた。石室は全長9.6mにも及ぶ3室構造の大形横穴式石室で、泥岩の切石による石積で、天井に向けて徐々に狭めていく持送り技法で、最後に巨大な天井石を乗せている。切石の接合面には、白色粘土が塗られている。玄室奥壁の鏡石と左壁には、白色粘土で図柄不明の文様が描かれている。副葬品は盗掘されており、築造時期の判定根拠に欠けるが、最奥の玄室が縦・横・高さともに、唐尺換算で10尺であることから、築造時期は7世紀後半と推定できる。高松塚古墳やキトラ古墳なども唐尺を使用しており、終末期古墳に共通している。馬絹古墳の築造時期が橘樹郡家や影向寺の設立時期とほぼ同時期であり、その関連性が注目されている。

                <馬絹古墳周辺>