4月10日(木)・12日(金) 鎌倉文化人の足跡を巡る (終了しました)
鎌倉は古来あまたの文化人を魅了し文学、絵画等数えきれない作品を残してきた。
奈良時代の万葉集「鎌倉の見越しの崎の石崩(いわくえ)の君が悔ゆべき心は持たじ」(碑:甘縄神明神社)に始まり、鎌倉時代においては武家文化、禅宗文化を中心として五山文学などが花開いていった。江戸時代では徳川光圀により鎌倉日記が編纂され観光案内書の先がけとなり多くの人々が集まった。明治時代に入ってからは鉄道(M22年横須賀線・M43年江ノ電)の普及により風光明媚で気候の温暖な鎌倉は避暑、保養に適した場所として栄え、多くの文学者、芸術家が訪れ住む地となり、鎌倉を題材とした作品も多く作られた。とりわけ近代においては鎌倉在住の文学者により鎌倉ペンクラブが発足しそのメンバーたちが鎌倉の街を盛り上げていくことになった。
今回は近代文学者を中心にその一端を紹介する。
《コース紹介動画》 https://youtu.be/o2khhNT2DOg
御成小学校周辺には古くは鎌倉郡衙や安達泰盛邸(今小路西遺跡跡S54年発掘調査)があった。733年(天平)「丸子氏がほしいい五斗倉に納めた」の内容が書かれた木簡、1265年安達氏屋敷の警備役の当番表等が出土している。また明治時代においては、皇女の富美宮允子内親王(ふみのみやのぶこ)や秦宮聡子内親王(やすのみやとしこ)の避寒地として鎌倉御用邸が建てられた(M32~S5廃止)。しかし関東大震災により崩壊しS8年その跡地に御成小学校や講堂が建てられた。御用邸時代の冠木門に掲げられている校標は高浜虚子の揮毫である。講堂ではS12年 ヘレンケラー(障害者の地位向上と援助協力)の講演が行われH29年に有形文化財に登録された。隣地にはS11年旧図書館が建設されたがR5年に再建され「おなり子どもの家」として生まれ変わった。近くには問注所碑があり初代執事は三善康信であった。当時はそこで極刑の判決を受けると近傍にある「裁許橋」を渡り飢渇畠(けかちばたけ)と呼ばれた荒地で刑が執行された。現在そこには六地蔵が祀られている。
隣地の鎌倉市役所駐車場付近には諏訪池(諏訪氏屋敷跡)が明治時代ころまであり、下馬英国人殺傷事件の犯人である間宮一と清水清次が逃げる途中刀の血をこの池で洗い流したと言われている。
【鎌倉駅西口広場より出発】 【御成小学校】 【裁許橋】
市役所の向かいにあるスターバックス、PORTAM、ガーデンハウスの店舗のエリアは朝日新聞、毎日新聞に連載された「フクチャン」で有名な横山隆一邸があった。
鎌倉駅のホームからも見えるホテルニューカマクラ本館は関東大震災の前まで京都料亭の平野屋の貸別荘があった。避暑で訪れていた岡本かの子夫妻と芥川龍之介がひと夏を共に過ごし、その時のことをかの子は「鶴は病みき」に書いている
寿福寺は鎌倉五山3位であるが1200年禅宗として鎌倉で最初の寺院として開基 北条政子、開山 栄西(喫茶養生記執筆)で創建された。
それ以前は平氏嫡荘家の平直方が「平忠常の乱」を平定するため勅令により京から鎌倉に下向しこの寿福寺辺りに拠点を設けた。しかし手ぬるい対応に朝廷から解任され、その後は源頼信が代わり忠常を降伏させた。そのことから頼信の子頼義に娘を娶らせ鎌倉の屋敷を譲った(詞林采葉抄)。その子が八幡太郎義家である(平氏直系と源氏直系の血を引く)また、義朝の時代においてもこの地を拠点(鎌倉の盾)とし東国での基盤を作った。屋敷周りには屋敷の周りに施された掻き上げの堀の跡が残り、裏山の源氏山(御旗山)へ上る道は古を感じる。
墓地の奥には源実朝と政子の墓がある。実朝は歌人として金塊和歌集を編纂した。
「山はさけ 海はあせなむ 世なりとも 君にふた心 わがあらめやも」 国宝館
「風騒ぐ をちの戸山に 雲晴れて 桜にくもる 春の夜の月」 八幡宮実朝桜脇
「世の中は 常にもがもな 渚こぐ 海女の小舟の 綱手かなしも」海浜公園(坂ノ下)
【寿福寺の境内】 【源氏山へ上る道】 【源実朝の墓】
文学者では高浜虚子、立子・大佛次郎等の墓がある。高浜虚子と大佛次郎は共に鎌倉ペンクラブの一員であった。
鎌倉ペンクラブ(鎌倉文士・鎌倉組)はS11年に久米正雄が会長となり発足しS13年は42名、S22年には73名に達した。太平洋戦争中彼らは荒廃した人心を明るくするために貸本屋「鎌倉文庫」を鶴岡会館付近で開店し戦後は出版社として創設することになった。
主なメンバーは
久米正雄、川端康成、高浜虚子、大佛次郎、里見弴、小林秀雄、大岡昇平、林房雄
横山隆一、深田久弥、太田水穂、神西清、中里恒子、野田高呉梧
今日出海、小杉天外、小牧近江、三好達治、島木健作 他 である。
高浜虚子(M7~S34)の生れは愛媛県松山市である。師は正岡子規、友は河東碧梧桐等であり、子規からは「花鳥諷詠」「客観写生」の客観主義と俳誌「ホトトギス」を継承した。M43年から由比ガ浜に住み終の棲家となり住居跡には句碑「波音の 由比ケ浜より 初電車」がある。2男6女の子供の中で次女の立子は幼い頃から感性に溢れ親である虚子も驚いていたという。その立子は小説家・教育者の星野天地(「文学界」創刊:同人 島崎藤村・樋口一葉等)の子吉人と結婚しその子椿、孫高志もともに俳句の世界で生きていくことになる。(「鎌倉俳句&ハイク」の選者)
系図
虚子(ホトトギス継承)ーーーーーー次女 立子(玉藻 創刊)ー↓
星野天知(文永2~S25 )「文学会」ーー吉人ーーーーーーーーーーー椿ーー高志
虚子:「子規逝くや 十七日の 月明に」「遠山に 日の当たりたる 枯野かな」
「鎌倉を 驚かしたる 余寒あり」
立子:「ままごとの 飯もおさいも 土筆かな」「父がつけし わが名立子や 月を仰ぐ」「雛飾りつつ ふと命 惜しきかな」3月3日没
大佛次郎(M30~S48)は横浜市中区英町に生誕しT10年長谷(高徳院裏)に住まいを移したことから大佛と名乗る。S4年から雪ノ下に移住し、1923年に鎌倉高等女学校教師に着任した。その後住居の斜め前にサロンとしての家屋を購入大佛次郎茶亭とした。(R4年に保存会が購入、R5年10月から運用が始まった)。御谷騒動においては日本初ナショナルトラスト運動に参画し古都保存法の成立に尽力し鎌倉風致保存会の理事も務めた。また、久米正雄とともに鎌倉カーニバル発案にも加わり、S4年野球チーム(鎌倉老童軍)を結成したなど鎌倉を大いに盛り上げた一人であった。現在はS45年に横浜山手に大佛次郎記念館が開館し、茶亭の様子なども映像で紹介されている。また彼は無二の猫好きで鎌倉で野良猫500匹近くの面倒をみた。
代表作は「帰郷」「鞍馬天狗」「天皇の世紀」
【高浜虚子の墓】 【向かいにある次女星野立子の墓】 【大佛次郎の墓】
鏑木清方記念美術館は日本画家(挿絵画家)であり文筆家でもある鏑木清方の住まい跡である。この雪ノ下にはS29年~49年逝去まで棲家とした。大佛次郎創刊の文芸雑誌(月刊)「苦楽」の表紙絵をS21年~S24年まで担当した。多くの随筆を執筆しており鎌倉文学館にも鎌倉文士の一人として取り上げられた。
川喜多映画記念館には映画評論家である長政・かしこ夫妻の住まいがあった。
S36年に 東京練馬にあった和辻哲郎邸をサロンとして移設し多くの俳優等を招き、S38年にはアランドロンを招待した。東和商事を立ち上げ「禁じられた遊び」「第三の男」等を日本に配給し、日本映画も海外へ紹介した。R5年の「川喜多賞」は是枝裕和であった(映画界発展に貢献した人に授与)
近傍にある石島邸は旧川喜多邸別邸であった。(有形文化財登録)
【川喜多映画記念館入口にて】 【庭には満開の桜が】
英勝寺は現在、鎌倉唯一の尼寺である。開基の英勝院(お梶→お勝)は徳川家康の側室(関ケ原の戦い等に同行し常に勝利していたことから家康より勝の名前を与えられた)として市姫(家康最後の子)を出産したが4才で夭折。その為家康は彼女を哀れに思い頼房(水戸藩初代藩主)の養母とした。そのお勝さんが建てた大きな橋(鎌倉十橋)が明治頃まで存在していたとされている。また、太田道灌の子孫であり、家光より道灌旧跡を賜り菩提所として英勝寺を建立した。開山は頼房娘の玉峯清因であり、代々水戸藩姫君が住職となってきたことから水戸御殿と呼ばれていた。寿福寺の門前には英勝院が架けた「勝ノ橋」が明治末ごろまであった。
水戸光圀は英勝寺を拠点として鎌倉日記を著し、それを元に新編鎌倉志を編纂させた。それは鎌倉十橋、十井、五水、七口、隠れイチョウなどを紹介した日本初の観光案内書であった。英勝寺の山門は光圀の兄頼重(讃岐高松藩主)建立したものであるが、頼重は英勝院の計らいにより生きることが許され藩主にもなれた。その恩への思いがしのばれる。
英勝寺の建立前の場所には智岸寺があり東慶寺住職であった旭山尼(小弓公方次女:、姉は清岳尼)の隠居後の寺であった。現在は稲荷神社だけが残っている(瑞泉寺の「どこも苦地蔵」が元ここにあったとされている)。隣には阿仏尼の墓があるが彼女は、中世の三大紀行文、海道紀(足柄路)、東関紀行(箱根路)の一つとされている十六夜日記(箱根路)を執筆した。息子の冷泉為相の墓は浄光明寺にあり向き合った位置にある。
藤原定家(公家、歌人 小倉百人一首撰者)→藤原為家→冷泉為相
【英勝寺の入口にて】 【阿仏尼の墓】
円覚寺は禅宗鎌倉五山2位として隆盛を続けた。とりわけ夢窓礎石が住持のころ五山文学が大いに発展を遂げ寺院の一番奥の高い場所である黄梅院は彼の塔頭となり、その発信場所の役割を担っていった。代表的であり五山文学の双璧と言われたのが絶海中津(蕉堅藁)と義堂周信(空華集)である。五山文学は禅僧によって書かれた漢詩文で法語、偈、讃、誌、日記などであった。
【総門】 【山門】 【境内の妙香池付近を歩く】
塔頭の中でも佛日庵は時宗、貞時、高時廟所として中心的な存在であり多くの文学者も関わりを持ってきた。その一人が川端康成である。敷地内の茶室の烟足軒は「千羽鶴」に登場してくる。大佛次郎の「帰郷」にも背景として登場する。また、S8年に日本に留学していた「阿Q正伝」の著者魯迅によりモクレンとタイサンボクが寄贈され、今も育っている。
松嶺院では有島武郎が「或る女」を執筆し、裏の墓地には映画俳優である佐田啓二「君の名は」、田中絹代「愛染かつら」と小説家の開高健「輝ける闇」らが眠っている。
帰源院は公開していないがM27年に夏目漱石が止宿している。その際、老師釈宗演のもとで参禅したが悟りを開けなかった。そのことから「仏性は白き桔梗にこそあらめ」と歌い境内には句碑がある。そしてその体験のもとに「門」「夢十夜」を書いた。また、島崎藤村も出入りしていた時のことを「春」に書いている。
お疲れさまでした。 桜が見頃で良かったですね。