10月22日(火)・25日(金)             下飯田周辺の中世~近世の鎌倉古道を訪ねる (終了しました)

かつて鎌倉道(上道)の通っていた相模国鎌倉郡内の下飯田地区は一面の農村地域でしたが、地下鉄や相鉄という交通網の拡充もあり21世紀になって急速に変貌を遂げつつあります。

境川や和泉川流域の古道周辺の鎌倉時代以来の歴史を訪ねながら、田園風景のなかのウオーキングを楽しみましょう。

 《コース紹介動画》 https://youtu.be/i_NCwrGc7rs

 

出発前のコース説明
出発前のコース説明

 地下鉄下飯田駅

 横浜地下鉄ブルーラインの駅として平成11年(1999)に開業しました。境川や和泉川周辺は水や気候に恵まれた住みよいところだったのでしょう。この地域には縄文時代以降の人々の生活の痕跡が発掘されています(草木遺跡・中の宮遺跡・中の宮北遺跡)。

 

横浜市の「都市計画マスタープラン」に基づき駅前拠点としての開発が計画され(区域23.9㏊)、その計画の一環として大規模集客施設(『ゆめが丘ソラトス』)が本年7月に開業しました。

 

 

寶心寺

 地名に因み山号を和泉山(ワセンザン)とし、院号と寺号は開基の松平昌吉(マサヨシ)の法号「松雲院殿業蓮社定譽寶心庵澄」に由来しています。宗派は浄土宗、本尊は阿弥陀如来立像です。そもそものお寺の起こりは鎌倉時代の武将泉小次郎親衡(チカヒラ)が菩提寺として建立した禅宗の泉龍寺(廃寺)とのことですが、江戸時代前期の慶安4年(1651)にその当時の領主松平昌吉が三河国より親の墓を移して新たに浄土宗のお寺として再建し現在に至っています。旗本能見松平家五代~十五代の殿墓は市の地域史跡に指定されています。

また寶心寺の岩舟地蔵は岩舟地蔵信仰の伝播草創期にあたる享保4年の銘があり、岩舟地蔵信仰発祥地である下野国高勝山の地蔵尊を奉請供養したものとして知られています。伝播時期が早いものとして横浜市の文化財に指定されています。

 

その他、厨子に背負われて村の各戸を一~二泊ごとに回り送られ、それぞれお供えを受けて安産や子育て等の願いをかなえて下さる廻化地蔵や大山みち道標も置かれています。

      【参道入口の車塔】         【境内にある岩船地蔵】         【能見松平家の殿墓】

 

 

和泉川の景観
和泉川の景観

和泉川親水公園

 

 和泉川は戦後の経済成長期に住宅からの生活排水と中流域の工場排水により汚染されました。川の自然を取り戻すべく、草木橋から関島橋の間の旧河川敷を活用して川岸緑地や田園の景観にマッチした親水広場が整備されています。

 

 

 

石仏群
石仏群

四ツ谷の石仏

 

 この近辺には古代住居を中心とする草木遺跡があり、周辺に古代から人の営みがあったようです。宝篋印塔残欠(年代不明)・道祖神塔(明治31870)・地蔵庚申塔(寛文101670)・出羽三山供養塔(文化21805)・石祠(年代不明)などが集められています。

 

 

第六天神社と酒湧池

 創建不詳、明治の神仏分離令によって神代七世の第六代の面足能命(オモタルノミコト)・惶根能命(アヤカシコネノミコト)をご祭神とする神社となっています。社前の道にも古鎌倉道(間道か)の伝承があり、近くに陣屋敷、御畝(オンネ)、隠忍坊といった山岳信仰に関係のある地名が残るなど長い間村人の信仰の対象として大事にされていたことが窺われる神社です。

 

また、古代から人が入植しそのため水源を崇め祀っていたのでしょう、傍らの酒湧池(サカワクイケ)の孝子伝説が残ります。

      【鳥居前にて】                【境内】                【酒湧池を望む】

 

 

密蔵院

 山号は南竺山と号する高野山真言宗の古刹。本尊は大聖不動明王(二尺二寸伝願行作)とのことで、秘仏とされています(ご開帳予定なし)。境内にはこの地域で盛んだった稲荷信仰の稲荷社と鐘楼(寛政4年)があり、准四国霊場巡りもできます。

大きな寺域を持ち、参道脇の巨大なハクモクレンが3月の開花期には参詣者の目を楽しませてくれることで有名でしたが、境内用地が環状4号線道路工事のために提供された影響か樹勢が低下し、現在は養生のため本堂脇に移設されています。

 

 石段下には文政4年(1821)建立の木食観正碑があります。

       【入口の階段】              【境内にて】              【准四国霊場巡り】

 

 

かまくらみち

 

 中世に鎌倉が政治の中心になると諸国から鎌倉への往来が盛んになりました。鎌倉へ至る道はおしなべて「鎌倉道」と称され各方面にありますが、中世の道そのままなのか政治的・経済的要因で新たに利用されるようになった道なのかは定かではありません。鎌倉と国府である府中を結ぶいわゆる鎌倉上道(カミツミチ)といわれる道が複数泉区を抜けています。横浜市埋蔵文化センターの発掘調査報告は新田義貞の軍勢が鎌倉攻めに駆け抜けていった道という伝承が残る「たつ道」(環状4号沿い)が中世のメイン道路であったことを示唆しています。また、現在の「鎌倉上道」(「藤沢八王子往還」)と称される道路は、農業生活が安定し田畑に近いところに村落が発展し、近世になって村落交通の道として主要道となった道(バイパス)と考えられます。

 

 

東泉寺

 

 山号は山門前の樹齢4百年ともいわれる名木古木の大銀杏からか巨木山(コボクサン)、曹洞宗の古刹です。本尊は釈迦牟尼仏。そもそもは鎌倉時代に領主であった飯田五郎家義ゆかりの寺だったとのいわれがあり、度重なる境川の水害により天正18年(1590)徳川の旗本筧助兵衛爲春(カケイ スケヒョウエ タメハル)により境川寄りの旧地より鎌倉上道沿いの当地に移転再興されました。薬師堂には飯田家義の守り本尊と伝わる薬師如来立像のほか弘法大師石像(お大師さま)が安置されています(相模準四国八十八か寺の59番札所)。

           【本堂】               【薬師堂】          【薬師堂内の十二神将】

 

 

琴平神社

 

東泉寺が当地に移転された天正18年(1590)ごろ、寺の鎮守として水難守護・治水の神である金比羅権現を祀るべく建立されたと伝えられています(金比羅の語源はサンスクリット語のクンピーラで仏教に取り込まれて薬師如来の護法善神とされる)。ただ、明治の神仏分離以後は琴平神社(祭神:大物主神・崇徳天皇)として存続しています。

 

 

城址碑前にて
城址碑前にて

富士塚公園(富士塚城址碑)

 

 源頼朝蜂起の石橋山合戦のとき、平家方の大庭景親に従いつつも頼朝を助けた飯田五郎家義(源平盛衰記では飯田三郎家能と記されているが同人とされている)の館があったところという伝承が残ります。昭和37年に富士塚団地が造成されるまでは小高い山の脇に壕の跡と思われる細長い窪地が残っていました。

 

 

美濃口家

 

 江戸時代旗本筧家領の下飯田村の代々名主の家系で明治時代村制が敷かれると村長も務めた美濃口家です(お住まい中)。鎌倉にあった日蓮ゆかりの本興寺が法難に遭い上飯田に移ってきたとき、持田家(上飯田の製糸業者の祖先)とともに移ってきたといわれる当地の草分け的存在です。江戸時代中期に名主を勤めた美濃口春鴻17331803)は相模を代表する俳人で加舎白雄門の高弟でした。その縁で大磯の鴫立庵の後見も務めました。

       【立派な長屋門】                【屋敷内にて】             【天に聳える欅】

 

 

日枝神社

 

 美濃口家と持田家(上飯田)との両家の鎮守とされる神社です。創建は不詳ですが、ご祭神は大山咋命と宇迦御魂命で山と水を司り五穀豊穣をもたらしてくださいます。

                【入口にて】                          【愛嬌のある庚申塔】

 

 

鳥居前にある庚申塔など
鳥居前にある庚申塔など

下飯田左馬神社

境川沿いに12社があるサバの字がついた鯖神社の一社。ご祭神は左馬頭源義朝で平安末期に飯田五郎家義が勧請したとも戦国時代小田原北条氏の領国であった頃の領主川上藤兵衛が勧請したとも伝えられています。徳川の世になって領主となった筧助兵衛爲春も鎮守として社殿を修復しました。

サバ神社は水田を見下ろすところに鎮座し、境内社として稲荷を備えたりしていることから水田稲作を生業とする人々の信仰の対象だったと考えられます。境内には堅牢地神塔や庚申塔などがあります。

 

 横浜市内各地で生産される梨は「浜なし」としてご当地ブランドにもなっています(平成27年に横浜農協が商標登録)。下飯田サバ神社の前の小菅家はその草分け的梨農家として有名です。

         【本堂前にて】              【境内でのガイド風景】       【銀杏の木を背にして】

 

 

相鉄線ゆめが丘駅

 相模鉄道いずみ野線の駅として平成113月開業した横浜市域で最も西に位置する駅。駅舎の構造が鉄骨仕立てのガーデンハウス状の近未来的デザインをしており、テレビ・映画他のロケ地としてよく利用され『関東の駅百選』にも指定されています。

周辺は前世紀までの農村風景が一変、不動産開発が進行中で相鉄系不動産会社だけでもマンション・戸建て住宅等700戸の建設を想定、5千人程度が居住する住宅街になる計画で、現在進行形の新しい街です。

 

                お疲れさまでした。