3月19日(火)・21日(木) 春の足慣らし!古道「岡津道」を巡る (終了しました)
昨年阿久和川の上流部を訪ねましたので、今回は下流部分にスポットをあてて中世~近世の尾根筋の古道「岡津道」を辿り、阿久和川下流部分の古刹を訪れてみましょう。
《コース紹介動画》 https://youtu.be/EmWtoKhZ9Dk
☆踊場駅 (🚾設備)
地下鉄踊場駅は平成11年(1999)に開業。その昔このあたりに夜ごと猫たちが集まって踊っていたという昔話が伝わり、踊場の駅名に採用されています。この昔話に因んで踊る猫をモチーフにした数々のデザインが斬新で「関東の駅百選」に選ばれています。なお地名については、この辺り旧大山道支線と旧岡津道の交叉する交通の要衝で、戸塚宿であぶれた遊女達が客引をしていた所だったので猫ではなく遊女をたとえたのだろうという説もあります。
【踊場駅の猫の足跡】 【踊場駅の猫の目】
☆寒念仏供養塔
元文2年(1737)に中田寺(チュウデンジ)の住職ら5人が念仏修行を行い、その仕上げとして建立したもの。中田寺は江戸時代初期の中田村領主石巻康敬が創建した浄土宗の寺院です(注、今回のコースには入っていません)。
☆しらゆり公園・庚申塚 (🚾設備)
「しらゆり公園」と優しい名前がついてはいるが、戦国時代には岡津道ぞいにたびたび合戦があって戦死者を弔う塚が散在していたと伝わります。その場所に守庚申が盛んな江戸時代中期(17世紀末)頃作られた立派な庚申塔が置かれています。
岡津町は古来「玄蕃山」(ゲンバヤマ)と呼ばれ鎌倉時代の御家人の領地だったといわれ、その玄蕃山周辺の新しく開墾した土地(新墾:アラク)という意味で「玄蕃あらく」と呼ばれています。現中田東町にあたる玄蕃あらくには江戸時代に領地を賜った石巻康敬の陣屋があったところといわれています。
【しらゆり公園】 【庚申塚】
☆岡津道
岡津郷(村)は、中世次のように支配者が変わりました。
・鎌倉時代頃は御家人の甲斐氏
(三郎為成:玄蕃山の主か)、
・室町時代ごろには扇谷上杉氏、 ・ ・戦国時代には小田原北条氏の家臣太田大膳亮
岡津道は東海道の藤沢あたりから深谷の専念寺前を通り、汲沢の中村三叉路・汲沢小・踊場・戸塚斎場裏・領家中前を通り岡津へ向かう尾根道です。東海道が整備される以前は小田原・江戸往還の一部として利用されました。
また小田原北条氏滅亡後それに代わって関八州の支配者となった徳川家康の時代には、代官頭彦坂小刑部元正の陣屋(岡津城)への往来の道として盛んに利用されたといわれています。
*岡津道を北に下る急坂には「腰抜け坂」の別名があります。『泉区の昔ばなし』によれば、道沿いの崖下に刑場があり、そこへ引き立てられる罪人が刑場が近いことを知らされ腰を抜かしたのが由来だとか、また急坂のため荷物の運搬に難儀することが由来だとかいわれています。
☆領家の由来(『泉区の昔ばなし』より)
岡津に城があったころのこと、城主の奥方がいよいよ出産となった折に暗くなってしまって困っていると、ふいに龍が現れ口から火を噴いてあたりをぱっと明るくしてくれたそうじゃ。おかげでお産を無事に終えることができ、奥方は胞衣(えな)を埋めた塚を作りました。お産の事を「花」ということからこの付近を龍の花と書いて「りゅうけ」(龍花)と呼んでいましたが、いつごろからか「領家」と書くようになったということです。
上記のようなほのぼのしたいわれの他、中世に地頭と荘園領主(領家・本家)との争いの結果、下地中分として領主側の所領となったから「領家」の名が残ったのではないかとする郷土史家の意見もあります。
☆普光寺・天神社
山号・光応山、院号・東光院、寺号・普光寺という高野山真言宗の寺院。本尊は聖観音菩薩立像(長禄3年1459造立)。創建年代は不詳だが、本尊の造立年代からみると1400年代中葉にはお寺はあったといわれている古刹です。
なお、寺の入口の小山の上に天神社があり、原田由右衛門の門人による明治3年建造の筆塚と寛文10年の庚申塔が置かれています。(*原田由右衛門については後述「西林寺」の項を参照)
【普光寺】 【天神社】
☆三嶋神社
岡津全域の鎮守として天文5年(1536)に再興されたと伝わり、中世以来時代によりこの地を治めた武人たちが心の拠り所として祭事を行っていたところです。祭神は大山祇命、本地仏は薬師如来とされ江戸時代は普光寺持ちでした。岡津の支配者の城域であったころは岡津中学や岡津小学校を含んでいたと考えられています。
今の岡津小学校が出来た当時は神社の参道を借りて校庭としていました。
(岡津城)岡津道の終点にあたるこのあたりに室町時代には相模に拠点をおいた扇谷上杉定正の子朝良が拠点とした砦があったといわれていますが、戦国時代に玉縄に進出してきた小田原北条氏によって奪われ、北条氏江戸衆の武将太田大膳亮が支配しました。16世紀終わり頃小田原北条氏は豊臣秀吉によって滅ぼされ、代わって関東の支配者となった徳川家康の直轄領となり、家康は4人に代官頭として領地の管理を命じました。この地に代官頭として統治を任されたのが彦坂小刑部元正で彼の支配の拠点(陣屋)が三嶋神社のところにあったといわれています。
☆阿久和川
瀬谷区阿久和地区にある長屋門公園に源流をもつ境川の支流(2級河川)。5.5㎞流れて戸塚区矢部町で平戸永谷川と合流して柏尾川に入る。昔は暴れ川であり、直近では2014年10月の台風18号のとき氾濫した記録があります。
☆西林寺
亀鶴山一心院西林寺。長禄4年(1460)団誉閑悦上人を開山として開かれた浄土宗のお寺で本尊は阿弥陀如来坐像です。
ここは、徳川家康の側室「お万の方」が大奥を辞したあとに草庵を編んだところです。その後に戸塚宿の清源院に移りました。
江戸時代末の当地で寺子屋の先生をし、明治維新後は岡津学舎の教員も勤めた原田由右衛門の頌徳碑(朴翁居士之碑)が門人によって建てられています。このお寺はしだれ桜や黒松(550歳。盆栽の松が育った!)の銘木古木でも有名でした。
【お万の方草庵】 【原田由右衛門の頌徳碑】 【西林寺桜】
残念ながら昨2023年6月漏電により本堂は全焼、しかし幸いなことに「しだれ桜」は残りました。
☆向導寺・富士塚(大山前不動)
徹底山本覚院向導寺という知恩院末の浄土宗寺院。元本尊は平安時代に由緒をたどれる定朝風の阿弥陀如来坐像です(横浜市指定文化財、関東大震災で多くの部分が被害を受けたため修復され、本年2月横浜市歴博で展示公開されました)。開創の年は不詳ですが、開山善蓮社知譽上人の没年からみて16世紀後半には存在していたのではといわれています。
大山へ行く道(柏尾通り大山道)を教えているように見えるとして徳川三代将軍家光公が寺の名を換え「向導寺」と名付けられたそうです。
寺の裏に信仰の対象として富士山をかたどった富士塚があります。
また富士塚のそばに琴平神社と不動堂があります。不動堂は不動明王が祀られ「大山前不動」として明治初期までは参拝者で賑わっていました。そのため南を流れる阿久和川にかかる橋は不動橋と呼ばれます。
【向導寺】 【富士塚】
☆永明寺(ヨウメイジ)
山号を岡津(コウシン)山という曹洞宗の寺院。本尊は聖観音菩薩立像。天文11年(1542)当時岡津郷の領主だった越前入道太田宗真(太田道灌の孫とする)が道灌を開基とし、興山舜養を開山として創建したとのことです。関東大震災で裏山もろとも堂宇も倒壊したため現「別院」のところに移転しましたが、近年周辺の開発や阿久和川の氾濫の影響を受け、平成2年に旧跡地の山上に新たに本堂を建設しました。
【永明寺】 【永明寺別院】
☆大山道・ほしのや道道標
永明寺別院のところにお不動様を乗せた享保10年(1726)の道標が残っています。「柏尾通り大山道」と「ほしのや道」いわれた巡礼の道の分岐にあたり、もとの川向うの不動橋の袂に置かれていました。弥生台方面へは「柏尾通り大山道」が、ほしのや道は阿久和川を上る方向は「ほしのや道」が座間の星谷寺へと繋がっていました。
*ほしのや道:鎌倉杉本寺を一番とする坂東三十三番札所巡りの道の一つで、弘明寺(十四番横浜市)から岡津村を抜けて星谷寺(八番、座間市)を結ぶ。
☆集いのまほろば🚻
阿久和川の水辺拠点として整備、すべての人にやさしい川作りをテーマに「まほろばの川づくりモデル事業」の一環として平成5年から阿久和川周辺の1.5㎞のあいだに5つのまほろば(ミニ公園)として市民の憩いの場を提供しています。
ちなみに、「まほろば」とはすばらしい場所・住みよい場所を示す古語で、古事記に詠まれた倭建命の歌が代表的な用例です。
「倭は国の真秀ろはたたなづく青垣山隠れる倭しうるはし」
やまとは くにのまほろば たたなずく あおがき やまこもれる やまとしうるわし
*(日本文学全集1古事記による表記。原文は漢字表記)
おつかれさまでした 富士山が素晴らしかったですね