11月21日(木)・26日(火)             信玄・謙信から小田原を守った城、河村城~洒水の滝へ    (終了しました)

河村城は平安末期、地元の豪族河村氏により築かれたという。その後、南北朝時代には南朝方の新田氏が入り、北朝方の足利氏の攻撃を受けたことが記録に残っている。現在の形になったのは、小田原北条氏時代で小田原城の支城として、主に西側や北側の武田氏・上杉氏の攻撃からの防備にあたったという。今回は、山北駅を出発し城跡公園を経て日本の滝百選に選ばれている洒水の滝までのハイキングコースを歩きます。

 《コース紹介動画》 https://youtu.be/CgwxfBx-E1Y

 

 

山北駅でご挨拶
山北駅でご挨拶

 

 

 

 

昨夜の雨も止み、すがすがしい朝でした。これから出発です。

 

 

●奇跡の復活「D52」デゴニ

 D52形蒸気機関車(D5270)は昭和18年(1943年)から昭和21年(1946年)にかけて総勢285両が製造された貨物用蒸気機関車です。「デゴニ」の愛称で知られ、山北町では、日本で唯一の動くD52を見ることができます。

 D52は、日本の蒸気機関車の中でも最大の牽引力、動輪上重量を誇ったことから「最強の蒸気機関車」と謳われ、おもに東海道・山陽本線で運用されました。現在山北町で保存されているD52は、昭和19年(1944年)に製造されたもので、当初広島に配置されました。昭和26年(1951年)には国府津に転属となり御殿場線が終焉の地となりました。廃車後の昭和45年(1970年)からは山北鉄道公園に静態保存されていましたが、平成28年(2016年)、圧縮空気を動力とする動態保存が実現し、日本で唯一の動くD52となりました。現在は月に1度整備運行が行われています。

        【丁度車両の整備中でした】          【整備員の計らいで、運転席に入ることができました】

 

 

●河村城のあらまし

 平安時代末期に築城され、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交差する要衝の近くに築かれた山城である。平安時代末期に藤原秀郷の流れをくむ河村秀高によって築かれたという。建武の新政・南北朝時代に入ると、河村氏は新田氏に協力し南朝方に付き、北朝方の足利尊氏と対峙したといわれ、1352年(南朝:正平7年、北朝:文和元年)から2年間、河村秀国・河村秀経らは新田義興・脇屋義治とともこの城に立てこもり、畠山国清を主将とする足利尊氏軍の攻撃をしのいだという。しかし、南原の戦いで敗れ落城し河村一族の多くは討死し、新田義興・脇屋義治は中川城(西丹沢)を経て甲州に逃れたという。

 その後は、この城は畠山国清や関東管領上杉憲実を経て、足利持氏の属将、大森憲頼(氏頼の弟)の支配するところとなる。

 戦国時代に入ると後北条氏の支配を受けるようになった。元亀年間(1570年(元亀元年) - 1573年(天正元年))には甲斐国の武田信玄の侵攻の際に補強され、その後、周辺の諸城とともに後北条氏と武田氏の間で争奪合戦があったとされる。1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めで、この城は落城し廃城となった。

 現在、河村城址歴史公園として山北町によって整備されており、本丸やその他の郭、畝掘(障子堀)などの遺構が見られる。Wikipedia                                                                                        

│  <ここがすごい!河村城!>                                    │                              

│ (1)県内の戦国時代の山城で県指定史跡は河村城跡だけ        │                              

│ (2)県内最大級の障子堀がある                                    │                              

│ (3)県内で障子堀の復原的整備を行っている唯一の城跡        │   

           【河村城の入口】                    【山城なので先ずは登りです】

 

 

現在の山北町周辺を支配していた河村氏が、山頂付近に砦のようなものを築いたのが河村城の始まりと言われている。南北朝時代の記録に「河村城」と書かれているので、この頃には城があったと考えられる。今、浅間山に連なる丘陵の山頂にある河村城はいつの時代の城の姿を残しているのだろうか。それは戦国時代、河村城が北条氏の城だった頃の姿だ。しかし、河村城には小田原城のような、水を蓄えた大きな堀や石垣、天守閣はない。それは、河村城が山城と呼ばれる城だからである。

 山城とは山のでこぼこした地形を活かして敵に攻められにくいように造られた城で、山頂付近には山を削ったり、土を盛ったりして、平らにした郭(くるわ)があちらこちらにある。山城は戦いになった時だけ使われた城で、普段、人々は山の麓の平らな土地で生活していた。河村城では南側のふもと(現在の岸地区)が生活の場所であったと考えられ、河村館跡(かわむらやかたあと)と呼ばれる遺跡が残っている。

          【見晴台】             【堀切を望む】          【大庭郭の案内板】

 

 

河村城は、郭の配置などが近世の絵図にも残っており、また発掘調査により障子堀(しょうじぼり)や橋脚遺構、空堀、段切腰郭等が発見されている。河村城を築いたとされる河村氏は、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族、波多野遠義の子、秀高が現在の山北の地を領し、河村を名乗ったことに始まると考えられている。

 源氏と平氏による石橋山の合戦の際、河村秀高の子、義秀は平氏に味方したため領地を没収されてしまうが、鎌倉で源頼朝に流鏑馬の妙技を披露し、本領河村郷に復帰できたと言われている。(『吾妻鏡』)

 また、義秀の弟秀清は頼朝の奥州征伐に従い、戦功により岩手県に領地を得て、奥州河村氏の祖になったと考えられている。南北朝時代、1352年に南朝方の新田義興らが河村城に籠城し、畠山国清を主将とする北朝方の足利尊氏軍と戦火を交えるが、翌1353年には新田軍は河村城から退却する。(『太平記』)

 その後は関東管領上杉氏、大森氏の持城となった時期を経て、最終的には小田原北条氏の武田氏に備えた出城として重要視されたが、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めに際し、廃城になったと考えられている。

 

 平成元年から6年の歳月をかけて河村城跡の調査研究と歴史公園としての整備が行われ、平成6年5月に「河村城址歴史公園」が誕生した。その後、平成8年には県内の山城としては初めて県指定史跡となった。また平成15年に整備の基本構想である「河村城跡史跡整備マスタープラン」を策定し、現在も整備を継続している。今後も町の貴重な文化財を保護・保存していくとともに、町のシンボルとして、町民をはじめ広く「歴史を感じ、自然を満喫できる異空間」として活用を図っていきます。山北町HP

          【堀切の説明版】                             【本城郭】

 

 

途中、日向活性化施設で昼食を頂きました。

          【日向活性化施設】                 【腹ごしらえもできました、次は洒水の滝へ】

 

 

●洒水の滝

 かながわの景勝50選 1979年(S54選定)、名水百選 1985年(S60選定)、日本の滝百選 1990年(H2選定)、かながわ未来遺産100 2001年(H13選定)

 酒匂川の支流、滝沢川から流れ落ちる「洒水の滝」は「日本の滝百選」、またその水は「全国名水百選」に選ばれている名瀑。「洒水」=「しゃすい」の名は、密教用語で清浄を念じて注ぐ香水を指すという。雄大なその姿は三段からなり、落差は一の滝は69m、二の滝は16m、三の滝は29mという豪快な滝で、古くから相模国第一の滝とされ「新編相模国風土記稿」では、「蛇水の滝」と記されている。

 この滝は鎌倉時代の名僧文覚上人が百日間も滝に打たれる荒行を積んだ地としても知られており、付近には文覚上人が安置したといわれる不動尊(不動明王「穴不動」)がある。毎年、7月第4日曜日に行われる「洒水の滝祭り」では、洒水太鼓をはじめとする太鼓の競演、滝不動尊境内での火祭りが行われる。火祭りの後、「丹沢山東光院」の印が押された御幣(オシメ)は無病息災のご利益があるといわれ、人々は競って持ち帰る。

 

●文覚と洒水の滝

 「洒水の滝」は、鎌倉時代の名僧文覚上人が百日間も滝に打たれ、荒行を積んだ地として知られる。付近には、文覚が安置したとされる滝不動尊(不動明王「穴不動」)があり、滝の手前には、文覚ゆかりの滝不動尊「常実坊」と文覚を偲んで建立された「最勝寺」がある。

 文覚は俗名を遠藤盛遠(1139~1203)といい、摂津源氏の武士団である渡辺党の出身で、北面武士として鳥羽天皇の皇女上西門院に仕えていた。ある時、幼なじみの袈裟御前に偶然出会い、袈裟が同じ北面武士の源渡(みなもとのわたる)の妻になったことを知り、以前から袈裟御前を嫁にと申し入れていたので盛遠は怒る。盛遠に懸想されていた袈裟御前は、夫を助けるため一計をめぐらし、夫の身代わりとして自ら進み出て盛遠に殺される。袈裟御前の命を奪ってしまった盛遠は人を殺めてしまった己の罪を悔い改め、髪を切り出家した。出家後、「文覚」と名を改め、命を捨てる覚悟のもと滝修行での苦行に勤めることを選んだという。

        【1班の皆さま】            【2班の皆さま】               【3班の皆さま】

 

 

●常実坊と最勝寺

 常実坊は洒水の滝手前にあり、昔は滝堂と呼び龍王山誓源寺と称した。平山村の「村鏡帳」、『新編相模国風土記稿』には、「古僧文覚百日の行法を修せし旧跡と傅ふ」との伝承がある。明治後期、南足柄市壗下(まました)大庭鶴吉氏祖父が行者像を奉納し安置した。現在は、地元の方々が管理をしている。(常実坊掲示版より抜粋)

 最勝寺は常実坊不動尊境内の隣に建立され、丹沢を守護する東寺真言宗東光院の別院になっている。東光院は、東山北に位置する創建470余年の古刹で、文覚上人を偲び昭和56年に竹林を切り開いて最勝寺を開山した。

    【最勝寺境内1】         【最勝寺境内2】                 【最勝寺境内3】

 

 

河村城を制覇。お疲れさまでした。