12月10日(火)・12日(木)             鎌倉街道下の道⑧栗木~金沢文庫 (終了しました)

鎌倉街道下の道シリーズ⑧の今回はJR洋光台駅から栗木神社経由で栗木の交差点に向かい金沢道に入ります。向坂からは山沿いの道を辿り、間宮氏ゆかりの上中里神社に寄ります。古道は住宅開発で跡を留めていませんが、再び尾根道を通って金沢八景根元の地の能見堂跡に寄り、金沢文庫駅を目指します。

今回のハイライトは六国峠ハイキングコースを歩き、能見堂跡に立つことです。今では江戸時代のような絶景は望めませんが、かつては景勝地として脚光を浴びたこの地の賑わいを偲んでみましょう。途中、金沢道に今も残る庚申塔や道標などを紹介しながら、江戸時代の庶民が楽しんだ旅を今に辿ってみたいと思います。

 

《コース紹介動画》 https://youtu.be/oLf7cUVc4Aw

 

出発前のコース説明
出発前のコース説明

洋光台駅

 洋光台駅は昭和45年(1970)に開業した。開業以前の駅周辺は「矢部野」という名の小さな農村地区であったが、駅の開業と前後して大開発が行われ、現在では横浜や東京への通勤者が生活する住宅密集地の中の駅となった。洋光台という地名は東京湾から昇る朝日に因んでいるという。当駅開業前の仮称は地名から矢部野駅とされていたが、開業後周辺の地名も洋光台に改称され、現在矢部野という町名はない。

 

 

栗木神社の鳥居前
栗木神社の鳥居前

栗木神社 創建年代等不詳。祭神は国常立尊

 

古くはこの辺りの田中、栗木、谷部野(現洋光台地域)、上中里、峰、氷取沢の各村を合わせて久良岐郡上笹下郷といった。栗木神社は江戸期には山王権現と呼ばれていたが、明治初年日枝神社と改め、明治6年村社となる。明治45年に上笹下地区の神社10社が合祀され、日枝神社は上笹下神社と改め上笹下地区の総鎮守となる。昭和22年被合併社が旧地に遷座したので、栗木町に残った3社を合祀して栗木神社と改称し、栗木町の鎮守となる。

 

 

庚申塔
庚申塔

向坂庚申塔

4基の石柱が並ぶ。道標に杉田道・新町道とあるので、金沢道と杉田道の分岐点を示していた。

①庚申塔 正徳三年(1713

②庚申塔 道標

 右側 これより右杉田道 /左側 これより左新町ミち 

正面 青面金剛三猿浮彫 享保元年(1716)十一月四日 台座正面に田邊権左衛門ら8人の名前がある

③道標 年号なし 右側 杉田ミち /正面 左新まち道 /左側 中里念仏講中

④庚申塔 青面金剛の文字    寛政一三辛酉天二月彼岸(1801) 中里念仏講

 

 

上中里の金沢道風景
上中里の金沢道風景

上中里

 この辺りは江戸時代「中里村」だったが、横浜市編入の際、久良岐郡内にもう一つ中里村(現南区)があったので、大岡川上流のこちらを笹下中里あるいは上中里と呼んだ。明治22年日下村大字上中里となり、昭和2年磯子区上中里町となった。小田原北条氏時代には間宮氏の領地であり 江戸時代も子孫が知行した。

 

 

階段手前で解説
階段手前で解説

上中里神社 創建年代不詳 祭神は大日大神

 

上中里神社は、行基菩薩が当地巡錫の折に彫った不動尊を祀った不動堂として創祀、これが再興されて上中里神社になった。明治45年栗木神社に合祀されたが、昭和22年当地に遷座した。

  【**段の階段を】          【本殿前にて】               【間宮寺関連墓石】

 

 

間宮寺址

神社のある小高い森のあたりを不動山と呼び、不動山の山麓(階段下)には「間宮寺」が杉田間宮6代目信久によって創建されたが、明治の神仏分離令により廃寺となり不動堂だけが残った。現在、手洗い場の奥に不動明王の碑があり、石塔には「南無妙法蓮華経」と「不動山間宮寺」の文字がある。

・鳥居 寛政八丙辰九月中旬建  森村石工 三右衛門 六浦石工 喜兵衛

・石碑 正面「南無妙法蓮華経 不動明王」/ 左 「行基菩薩御作」/ 右 「不動山間宮寺」

・庚申塔 延宝四(1676) 月吉日  / 左「武州倉岐郡 中里村同行 廿八人」

 

 

由緒説明版の前にて
由緒説明版の前にて

上中里神社 由緒
聖武天皇の時代、東大寺や国分寺建立の実質的な責任者と伝えられる行基菩薩がこの地に滞在した時、人々のために天下泰平、請願満足の祈願をして不動明王像を彫刻した。それを祀って、このあたりの村の鎮守としたのが始まりとされている。その後、寛永年間(162445)にこの地で山火事があり神社は消失し、不動明王像も行方不明になっていたが、その後、近くの水田の中で夜になるとほのかな光を放つ場所があり、村人がそこから不動明王像を発掘した。矜羯羅・制多迦の二童子も失っていたが、境内の古樹の洞穴から出現したとされ、不動山の頂に堂を再建して、改めて村の氏神として祀ったと伝えられている。

・社殿右「七社の宮」…村内に分散していた七社を祀る

・階段下…間宮寺関連墓石三基 

   左「妙法浄信法師 寛保三亥 正月五日」/中「当寺開基福恩院日秀 元禄四 

    二月廿九日」右「当寺二世大運院日乗大徳 享保二」

 

 

陣屋址前にて
陣屋址前にて

中里陣屋址 陣屋橋

 この地域は戦国期以来間宮氏の所領だった。間宮氏は江戸時代に旗本となり元禄十六年(1703)この地にも陣屋が置かれたという。笹下川の西岸、上中里神社の麓の古屋敷と呼ばれる谷戸にあったとされ、近くの笹下川には「陣屋橋」が架かっていたが、今は笹下釜利谷道路の下に隠れている。

 

 

良く手入れされていました
良く手入れされていました

岩船地蔵

 享保四年(1719)栃木の岩船山高勝寺から勧請され中里村の有志により造立された。石の船の上に地蔵が乗っている。航海の安全祈願のほかに「いぼ取り地蔵」としても信仰され、子宝・子育てにもご利益があるといわれた。かつては一本杉の根元に祀られていて、坂の下と地蔵堂のあたりには茶屋もあったという。

 

 

遠く配水塔を望む
遠く配水塔を望む

能見台

 閑静な住宅街の能見台は昔、宮川から枝分かれした谷津川の源流域の谷戸であった。京急の能見台駅も昭和50年代の終わりころまでは谷津坂駅と呼ばれていたが、開発に伴って名を改めた。

不動尊前にて
不動尊前にて

谷津関ケ谷不動尊

 かつては金沢文庫周辺の水田灌漑用水となった谷津川の水源地(湧水)のあたりに建っていて、「滝の不動」とも呼ばれていたが、昭和50年初頭から始まった宅地造成に伴い、昭和62年この地に遷座した。

能見堂跡の説明版前にて
能見堂跡の説明版前にて

能見堂跡

 能見堂の歴史は古く、平安時代に藤原道長が開いたという伝説(『金沢八景能見堂縁起』)や、巨勢金岡の擲筆松伝説もあるが、文明18年(1486)『梅花無尽蔵』には「濃見堂」は廃絶して無かったとある。 その後、寛文年間、当時の領主久世大和守広之が芝増上寺から地蔵院をここに移し堂宇を再興、「擲筆山地蔵院」と称した。

元禄7年(1694)頃、明の僧心越禅師がこの地を訪れ、能見堂から見た金沢の景色が故郷中国の瀟湘八景によく似ていることから武州能見堂八景詩を詠み、金沢八景が景勝地として広まっていった。また、歌川広重らが、これを題材に浮世絵を描いたことによって、能見堂は広く知られるようになり、『江戸名所図会』にも繁盛ぶりが描かれている。寺の山門には心越禅師の書になる「擲筆山」、本堂には「能見堂」の額が掲げられていた。金沢八景探勝の中心的存在で、隣には谷津村村民の出した茶店もあった。天明年間(17811784)が最盛期だったという。

能見堂跡には享和三年(1803)に、江戸の庶民百数十人によって建てられた「金沢八景根元地」の石碑が残っている

  明治2年(1869)に能見堂は火災にあい、その後堂は再建されなかった。かつて仏堂にあった享保18年(1733)銘の喚鐘は、現在谷津の京急踏切脇の火の見櫓の半鐘に使用されている。

      【能見堂跡その1】             【能見堂跡その2】           【能見堂跡その3】

 

 

左から馬頭観世音/百番観音塔/道改修供養塔
左から馬頭観世音/百番観音塔/道改修供養塔

金沢道石塔群

 馬頭観世音 天保十一子年(1840)四月吉祥日/ 百番観音塔/ 道改修供養塔 文化十二(1815

谷津庚申塔群
谷津庚申塔群

谷津庚申塔

 

大青面金剛 天明九年(1789/青面金剛像 享保十年(1725/青面金剛像 貞享四年(1687

谷津道標…平成29年(2017)に京急踏切付近から谷津染井公園内に移設

正面「右能見堂 保土ヶ谷道」/右側「此方 江戸」/左側「天保十年(1839)亥年六月 願主 光明院」 ・称名寺塔頭光明院が建てた道標

         【移設前の標識】                          【移設後の道標】

 

 

お疲れ様でした。    晴天のもと気持ちよく歩けました。