6月12日(火)・21日(木)発掘されたハマの中世城址を訪ねる(修了しました)

 当クラブで城郭を扱うのは、昨年実施した①篠原城・小机城、②小田原城古郭・石垣山城に続き第三弾となります。茅ヶ崎城は、以前は小田原北条氏の 支城との見方がされていましたが、最近ではそれ以前に遡る扇谷上杉氏との関連が指摘されています。榎下城(別名、久保城)は、戦国時代の歴史書などに記録があり城主も判明していますが、詳細な経緯は不明です。二つの城は、市内では稀である「発掘された中世城郭」という他に、神奈川湊から小机城を経て府中や八王子方面に向かう「かながわ道」(飯田道)沿いにあるという地理上の共通点をもちます。今回は、この二城址の成り立ちや仕組みを探ります。     

茅ヶ崎城址入り口
茅ヶ崎城址入り口

茅ヶ崎城の歴史  

 茅ヶ崎城に関する最初の文献は19世紀初めに編纂された『新編武蔵風土記稿』である。茅ヶ崎村の項「旧跡多田山城守累蹟」では「多田行綱の館跡」と記されている。多田(源)行綱は12世紀後半、摂津国多田荘々官嫡流、多田源氏の武将で、隣接する観音堂、寿福寺などの縁起にも記載されている。これにより、茅ヶ崎城は平安時代末期の城館跡という伝説があるが、その詳細は不明である。今日では茅ヶ崎城は南北朝より室町時代の豪族が居城した城とされ、14世紀末~16世紀前半に2期にわたって築城されたとされる。

 都筑郡一帯は、室町時代以降武蔵国守護職・関東管領山内上杉氏の家宰長尾氏の支配下にあった。鎌倉公方足利持氏と関東管領山内上杉氏が対立する中で扇谷上杉氏も勢力を拡大し、武蔵国と相模国は山内・扇谷両上杉の支配する所となった。鎌倉公方と両上杉氏の対立の中で起こった「享徳の乱」以降、関東一帯は約50年にわたる争乱状態となる。文明8年、「長尾景春の乱」に端を発した長尾氏の内紛により、長尾景春被官の小机城矢野氏も兵を挙げたが、太田道灌により攻撃され滅亡した。この後、山内・扇谷両上杉の対立である「長享の乱」により都筑郡一帯は扇谷上杉氏の支配下となり、扇谷上杉氏家臣上田氏が支配した。

 その後16世紀には小田原北条氏により山内・扇谷両上杉氏は滅亡し、都筑一帯は小田原北条氏の支配下となり、第2期の築城が行われたものと見なされる。1559年に作製された『小田原衆所領役帳』の中で座間氏が城代として扶持を得ている事が記されていることにより、この時期の茅ヶ崎城は小田原北条氏の城であったと思われる。16世紀後半になると上杉謙信、武田信玄の小田原攻めでは茅ヶ崎城の名は出てこず、この時期にはすでに廃城となっていた可能性がある。

茅ヶ崎城の発掘調査 

 平成17年度を最後として数回の発掘調査により、茅ヶ崎城址より多数の遺物が発掘された。主たる物は中世の遺物だが、縄文時代、弥生時代の土器もある。中世の遺物ではかわらけ(手づくねやロクロで作られた素焼きの皿、儀式用に使い捨てで使用された)・陶器・銭・板碑がある。特徴的な出土物は、表面にうずまき紋の入った「ウズマキかわらけ」である。このようなかわらけは、茅ヶ崎城の他、葛西城・川越城・深大寺城・岩槻城・丸山城などの南関東の城より発掘されており、これらは扇谷上杉氏の居城であった。また、山内上杉氏、古河公方、小田原北条氏はそれぞれ特徴のある形状をしたかわらけを使用しており、かわらけを調べる事で各氏の勢力範囲や他地域との交流などが推測される。そのほか陶器は灰釉処理が施されている瀬戸・常滑焼きの破片であった。また、銭は銅銭で「元豊通宝」であった。

 茅ヶ崎城の立地と構造 

 港北ニュータウンのばぼ中央、鶴見川の支流早渕川の南岸に茅ヶ崎城は位置する。昭和49年(1974)の港北ニュータウン基本計画で遺跡の現況保存の方針が掲げられて以降、1990-98年にかけて7回の調査が実施された。2008年6月には、茅ヶ崎城址公園として整備され、築城当時の遺構を良好な形で残している。古くから、地元で「城山」と呼ばれるこの城は、東西330m南北200m55000㎡の規模をもつ丘城で、北を早淵川とその沖積地に、南を正覚寺谷に囲まれた天然の要害上に立地している。城の北側に東西に走る道は、神奈川湊から小机城を経て、武蔵国府中までを結ぶ街道であり、茅ヶ崎城は、河川及び街道交通における関所の役目を果たしていたと考えられている。

 城の構造は、北郭・東郭・中郭・西郭・東下郭・東北郭の六郭と、南平場・北平場から成る。この内、東・中・西の各郭が東西に一列に並んで最も高く、城の中心を成している。その北側に一段下がって北および東下郭があり、さらにその下の窪地を東北郭(外郭)とする。城の特徴の一つは、直列に連結する郭が、複数に配置される構造にあり、またこれら六つの郭は、主軸となる西・中・東・東下の各郭がまず造られ、後に北郭が付けられるという、二期にわたって築城されている。その時期はおおむね一期が14世紀末~15世紀前半、二期が16世紀前半に比定されている。城の出入り口は、西および北郭に開口部があり、それぞれ土橋や木戸が確認されている。このうち、中郭には合わせて八つの時期の異なる建物跡があり、大半は総柱式や二階建ての、いずれも倉庫であったと考えられている。建物の台石や壁土の一部には被熱痕があり、火災もしくは、外からの攻撃によって被災した可能性がある。立て籠りや避難所、物資備蓄の役割があったと想像される。

 

寿福寺観音堂
寿福寺観音堂

寿福寺と観音堂

 城址西側に隣接する寿福寺は、平安後期摂津国多田荘々官嫡流、多田源氏の武将、多田行綱(満仲より8代目)の子孫智空上人が開山。観音堂は治安2年(1022)火災に見舞われ、時の茅ヶ崎城主多田(源)行綱が堂を建て本尊を祀ったと寺伝にある。しかし、城址発掘調査の結果と行綱がいた時代や地域が一致しないことから史実とは考えられていない。

旧城寺(榎下城)
旧城寺(榎下城)

 榎下城の歴史 

 戦国時代の歴史書である『今川記』や『相州兵乱記』などによると、榎下城は宅間上杉氏(上杉重兼を祖とし鎌倉市浄明寺に本拠を持ったが後に相模国永谷に移った)の上杉憲清により、永享年間(1429-40)に築城されたという。城名は榎下郷から。憲清の子・憲直が永享の乱(1438年)で、4代鎌倉公方足利持氏に味方したが、持氏と対立した関東管領上杉憲実を援けた室町幕府軍に敗れ、持氏は鎌倉永安寺で、憲直は称名寺で自害した。その後は、榎下城は山内上杉氏の支配となったと思われるが、詳細は不明である。山内上杉氏の一人である顕房が「榎下小五郎」の名をもっていた。

 『小田原衆所領役帳』や『新編武蔵風土記稿』には、山田右京進の居城となっている。山田右京進については不明であるが、扇谷上杉氏に仕え、後に武蔵松山城主となった上田氏の被官に山田氏があるので、山田右京進もその一族である可能性がある。小田原北条氏時代は小机城の出城の一つとなっていたと思われる。権現山城・青木城がある神奈川湊から八王子方面へ抜ける街道沿いであることから、物流や軍事的に重要な拠点であったといわれる。久保村の長である佐藤小左衛門が、慶長8年(1603年)頃、旧城寺を開いた。

 榎下城の発掘調査  

 日本城郭学生研究会により1965(昭和40)年と66年、國學院大学城郭研究会により1970(昭和45)年に、合計3回の発掘調査が行われた。発掘調査は主郭部で、角柱・丸柱・円形土坑などが発見された。角柱を使用した掘立柱建物は、主軸方向か郭と並行していない。中世の城郭は一般的には、郭辺と並行しており、発見された柱穴は、古代の掘立柱建物跡の可能性もある。現在、弓道場があるところから柱穴が発見されたという。弓道場が建てられたのは1972(昭和47)年である。

 遺物としては、灯明皿・炭化有溝木片・青磁片・円柱状鉄棒・板碑片・土器片・鉄釘などが出土した。主郭西側の井戸跡も調査をしたが、何も発見されなかったという。これらの出土品は、時代的には上杉憲直が城主であったと思われる14世紀末から15世紀前半とほぼ一致する。1989(平成元)年には、旧城寺本堂の裏手から、常滑焼の蔵骨器が発見された。発見された場所は異なるが、板碑も発見されているので、墓地も含まれていたと考えられる。中世以外では、縄文土器や土師器、須恵器も見つかっている。 

山田右京進石碑
山田右京進石碑

 榎下城の立地と構造  

 榎下城は、鶴見川の支流である恩田川の南岸にあり、北側に延びた舌状台地を利用して築かれている。主郭の標高は30m、恩田川南岸低地からの比高は16mほどである。城は、南北に並ぶ三つの郭から成り、中央の一段高い郭が主郭である。主郭は全周に土塁を巡らせていたらしいが、後世の耕作などでかなり切り崩されており、そのため虎口の位置や構造を特定しにくい。南西隅の土塁がやや大きくなっていて、山田右京進の石碑が建っているが、ここは櫓台だったとみられる。主郭と寺の建物のある二の郭との間は墓地となっているが、空堀の痕跡が確認できる。主郭の南に位置する二の郭には旧城寺の建物が並んでいるが、三方に土塁が残っている。台地続きとなる南側の土塁が一段と大きく造ってあり、寺の参道でかなり変形しているが、中ほどが虎口となっていたことがわかる。「新編武蔵国風土記稿」は、この虎口を「喰違いの土手」と表現しているが、遺構を観察する限り枡形虎口のような構造だったらしい。北にある郭には、本来は土塁が築かれていたのだろうが、現状では失われている。かつて城の三方に存在していた空堀は、二の郭の北側にわずかに痕跡が確認されるのみである。また、西側の堀跡に面した土塁には、三か所ほど櫓台が突き出しているのがわかる。(縄張り図参照)

  なお、榎下城付近には、神奈川湊から八王子方面へと抜ける街道や鎌倉中の道が通過していたので、これを意識した築城とも推測できる。城地東側の谷は、自然地形に手を加えた谷堀の面影を留めていて、そこから城を眺めると要害地形であったことが実感できる。

 横浜貿易新報、名勝・史蹟45選  

  1935年、横浜貿易新報社(現神奈川新聞社)では、社長であった三宅磐が死去し、嗣子市郎が社長に就任した。同社では、新社長就任と、1935年が創業45周年にあたることから、これらを記念して9月から本県警察博覧会・自転車選手権競走など八つの事業を行った。この中で最初に行われた事業が、45周年にちなんで県下45箇所の名勝・史蹟を読者投票によって選定する事業であった(名勝史蹟45佳選)。 

 新聞社による各種人気投票は明治時代から行われており、名勝等では 1927年東京日日・大阪毎日が行った「日本新八景」がある。これは、投票の過熱化から「二十五勝」「百景」が追加されるほどであった。昭和初期は、1918年制定の史蹟名勝天然紀念物保存法などによる保存運動の高まりや観光への注目が拡大した時代であった。神奈川県内においても史蹟の保存や景園地計画などが進められており、1935年の横浜貿易新報紙面にも多くの関連記事が掲載されていた。このような背景の中で投票が企画され、榎下城址のある旧城寺は第43位にあげられた。

杉山神社
杉山神社

 杉山神社 

 杉山神社は周辺地域に住む民衆の信仰の中心として鶴見川水系沿いを中心に拡大した「地域社」とされるが、謎の多い神社である。鶴見川の他に帷子川および大岡川水系、多摩川の右岸(川崎市・稲城市)に存在するが、多摩川を超えた領域には存在しない。江戸時代に編纂された『新編武蔵風土記稿』では杉山神社が全部で72社あると記されているが、その後の合祀や社名変更などにより現状で宗教法人登録されている「杉山」(椙山も含む)がつく神社の合計は44社となっている。

 平安時代の貞観11年(869年)に編纂された『続日本後紀』では「枌山神社」と記述される古社で、同書では当社が承和5年 (838年)2月に官弊を賜り、また承和15年(848年)5月には従五位下を授かった旨が記されている。さらに延長5年(927年)に編纂された『延喜式神名帳』では「武蔵国都筑郡唯一の式内社(『延喜式神名帳』記載の神社)」との記載もされている。しかしその本社は比定されておらず、未だ多くの論社が存在する。論社のうち現在では横浜市にある4社(緑区西八朔町、都筑区中川および茅ケ崎中央、港北区新吉田町)が最有力とされている。

※「論社」とは、似た名の神社が二つ以上あってどれが式内社か不明である神社のこと。