2月22日(木)・27日(火)梅薫る鎌倉五山を巡る(終了しました)

 鎌倉には五山といわれる格式の高い臨済宗の寺院があります。鎌倉幕府5代執権北条時頼の頃、中国宋の五山の制を取り入れたのが始まりといわれています。時代により五山の構成や順位は変わりましたが、室町幕府3代将軍足利義満の頃に、現在の京都と鎌倉の五山の制が確立しました。今回は梅の香ただようなかを、武家の古都鎌倉に、かつての繁栄の跡を訪ねました。

円覚寺山門
円覚寺山門

 円覚興聖禅寺。臨済宗円覚寺派大本山。鎌倉五山第2位。

 元(蒙古)が攻めてきた文永・弘安の役の敵味方両軍の戦没者の菩提を弔うために、鎌倉幕府8代執権北条時宗が、無学祖元を宋から招いて創建した。弘安5年(1282)12月に落慶供養が行われた。

 山号の瑞鹿山の由来は、落慶供養の時の無学祖元の説法を白鹿の群れが聞いていたことによる。寺名の由来は、土の中から円覚経を納めた石櫃が出てきたことによる。

 元亨2年(1322)に法堂が造られ、総門・山門・仏殿・法堂が一直線に並ぶ中国禅宗風の伽藍配置となった。鎌倉幕府が滅亡し北条氏の庇護は失われたが、当時の住職無窓疎石は、後醍醐天皇や足利尊氏の信任があり、寺勢は保たれた。山門は天明3年(1783)に再建された。伏見上皇宸筆の「圓覚興聖禅寺」の額がある。

浄智寺曇華殿
浄智寺曇華殿

 金宝山浄智寺。臨済宗円覚寺派。鎌倉五山第4位。

 開基は北条師時(10代執権)で、弘安4年(1281)に29歳で没した北条宗政(時頼の三男)の菩提を弔うため、宗政夫人が幼少の師時を開基としたといわれる。開山は兀庵普寧(ごったんふねい)と大休正念・南州宏海の3名になっているが、開山に招かれた南州宏海が大任すぎると辞退し、師である大休正念が開山供養を行い、すでに世を去っていた兀庵普寧とともに開山とし、自らは第2世とした。仏殿である曇華殿には、本尊である三世仏がまつられている。阿弥陀如来は過去を、中央の釈迦如来は現在を、右側の弥勒如来は未来を表している。室町時代の作で鎌倉特有の法衣垂下像である。

 

建長寺山門
建長寺山門

 巨福山(こふくさん)建長興国禅寺。臨済宗建長寺派大本山。鎌倉五山第1位。

 5代執権北条時頼が宋僧の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を招いて、建長5年(1253)創建と伝わる。わが国で初の中国宋風の禅宗専門道場寺院。

 この地は地獄谷と呼ばれ、処刑場であった。心平寺という寺があったが、建長寺を建てる頃は、地蔵堂だけが残っていた。この地蔵堂は現在三渓園に移築され、天授院(国重文)となっている。

 山門は安永4年(1775)に再建された重層門で、後深草天皇宸筆の「建長興国禅寺」の額がある。山門と仏殿の間に7本の栢槙の古木があり、蘭渓道隆お手植えといわれる。

建長寺梵鐘
建長寺梵鐘

 仏殿脇の萱葺の鐘楼には、建長寺創建当初の梵鐘がかかっている。物部重光が鋳造したもので、円覚寺の梵鐘とともに国宝に指定されている。

亀ケ谷坂
亀ケ谷坂

 鎌倉七切通のひとつで、扇ヶ谷と山ノ内を結ぶ道で、鎌倉と武蔵方面を結ぶ重要な道である。かなりの急坂で、亀が急坂のためひっくり返り、引き返したので「亀返り坂」と呼んだのが、亀ケ谷坂になったという。現在でも生活道路として使われている。

岩船地蔵堂
岩船地蔵堂

 建久8年(1197)に20歳で没した頼朝の長女大姫の守り本尊といわれる木造地蔵菩薩立像を安置する。床下には石造舟光背の地蔵菩薩像がある。

 地蔵堂の前の道は武蔵大路で、化粧坂から鎌倉街道上道につながっている。

寿福寺総門
寿福寺総門

 亀谷山寿福金剛禅寺。臨済宗建長寺派。鎌倉五山第3位。

 北条政子が栄西を開山として正治2年(1200)に、頼朝や子たちの菩提を弔うために創建した。

 栄西は日本に初めて臨済禅を伝えた禅僧であるが、当初の栄西の活動は密教的行法で、寿福寺も禅密兼学の寺で、禅宗専門道場ではなかった。栄西のあとには、蘭渓道隆や大休正念らが住持になると宋風禅宗寺院となった。幕府の庇護を受け五山となった。

寿福寺山門
寿福寺山門

 寿福寺は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて最も栄え、塔頭も15院あり、鎌倉五山第3位となった。しかし、応永2年(1395)に焼失し、再建はされたがもとの伽藍には戻らず、衰退していった。朱塗りの総門とその先の山門は江戸時代の切妻造の四脚門である。背後の墓地の奥のやぐらの中に、北条政子と源実朝の墓と伝わる五輪塔がある。

浄妙寺
浄妙寺

 稲荷山浄妙広利禅寺。臨済宗建長寺派。鎌倉五山第5位。

 足利義兼が退耕行勇を開山として、文治4年(1188)に創建と伝わる。当初は密教系の寺院で、極楽寺と称していたが、蘭渓道隆の弟子・月峯了然が住持となり、臨済宗となり寺名も浄妙寺となった。足利尊氏の父・貞氏は浄妙寺殿といわれ、中興開基とされている。

 足利義満が、京都鎌倉五山を定めたときに、鎌倉五山第5位となった。五山にふさわしい七堂伽藍が整い、塔頭も23院あったといわれるが、火災や鎌倉公方滅亡などにより衰退していった。

 墓地に足利貞氏の墓と伝わる宝篋印塔がある。明徳3年(1392)銘があり、正面に宝生如来の浮彫があり、他の面と合わせ全体で金剛界四仏となっている。

 奥のやぐらに尊氏の弟・直義の墓と伝わる宝篋印塔がある。

 浄妙寺の東側には鎌足稲荷神社がある。藤原鎌足が夢のお告げにより、鎌を埋めたという伝説があり、鎌倉の地名のもととなったという説がある。