3月31日(土)・4月7日(土)大山道 下鶴間宿を歩く(終了しました)
大山道(矢倉沢往還)は江戸青山を起点に矢倉沢峠を通り、駿河で東海道に合流する東海道の脇往還です。江戸時代には霊峰大山への参詣道として大山詣での人々が多く利用しました。
鶴間の地は古く、足利尊氏・直義所領目録に「絃間(鶴間)郷」の名が見えます。鎌倉街道の上の道に面し、新田義貞が鎌倉へ進軍する際にもこの地を通り、戦国時代には小田原北条氏が駆け抜け、江戸末期から明治にかけては八王子と横浜を結ぶ絹の道を商人が行き交いました。
昭和4年(1929)、小田急江ノ島線が開通。これに伴い大和市内に中央林間都市(現中央林間)・南林間都市(現南林間)・鶴間・西大和(現大和)・高座渋谷の5駅が開業しました。小田急創立者利光鶴松は、鉄道建設と並行して沿線の都市開発に乗り出しました。小田急による林間都市構想です。
現在の南林間と中央林間周辺の65万坪を住宅地として造成し、5千戸の住宅都市を建設するというもので、住宅地の周辺には公園を配し、ゴルフ場・野球場・ラグビー場・テニスコートなどのスポーツ施設や集会所を設けました。中央林間都市駅と南林間都市駅の間の東地区は「スポーツ都市」と銘打って分譲されました。しかし当時としては都心から遠いことや太平洋戦争の勃発などで林間都市構想は頓挫しますが、南林間の駅周辺は現在も駅前広場を中心として通りが碁盤状にめぐり、当時を偲ぶことができます。
つきみ野の目黒川両岸には旧石器時代の遺跡が点在し、これらをつきみ野遺跡群と呼びます。つきみ野遺跡群上野遺跡では、約二万三千~一万二千年前の遺跡が発掘され、旧石器時代の石器、縄文時代の始まりをつげる日本最古期の土器片、これに続く隆線文土器が発見されました。特に昭和40年代の明治大学考古学教室などによる発掘調査の結果、「細石刃」と呼ばれる石器群の良好な遺跡であることが明らかになりました。
大和市つる舞の里歴史資料館は、地域の歴史資料を収集保管し、郷土史に対する理解を深めるために平成10年に開館しました。外観は幕末から明治初頭の農家をモチーフとしています。
「下鶴間」地域は、室町時代ごろまで「絃間」と呼ばれる郷村でした。「ツルマ」の地名は、鶴の生息地から来た説と地形や水に由来するという説があります。その他、頼朝や家康が狩りの途中で鶴が舞うのを見た説などがあります。
里桜の並木が続く緑道です。沿道には四季折々の花が植えられ散歩する人々の目を楽しませてくれます。
この道は横浜市に飲料水を送るための水道みちが緑道として整備されたものです。
開港後、横浜は急激に人口が増大しましたが、横浜の井戸水は塩分を多く含み、飲料水には不向きでした。横浜の近代水道はイギリス人技師ヘンリー・スペンサー・パーマーと神奈川県技師の三田善太郎による調査・設計に基づき明治18年に工事着工、明治20年に完成したのに始まります。相模川上流の三井用水取入所から野毛山浄水場まで44㎞の鉄製導水管を通すものでした。
境川の源流は東京町田市と八王子市、神奈川県城山町の接点にそびえる草戸山(365m)です。相模国と武蔵国の境界を示すことから境川と名付けられました。下流では鎌倉郡と高座郡の境界でもあります。
境川は相模川が海進や海退を繰り返し、大きく流れが変わる過程でできた名残の川です。
大山道と八王子街道が交わる交差点にある鶴間山東照院は真言宗の寺院で、開基開山は不詳です。本尊は十一面観音菩薩で、卯年の4月にだけ開扉される秘仏です。地域一帯が火災で焼失した時、観音堂だけが残ったので、この十一面観音菩薩像を本尊と仰ぎ、寺号を観音寺と改めたといいます。
この地が下鶴間宿の江戸方口です。
大山阿夫利神社を分霊したといいますが、詳細は不明です。江戸から歩いてきた旅人は、ここで草履をはき替え、身と財布を清め金運を願ったといいます。街道沿いには「是より東江戸十里、西大山七里」と書かれた碑があります。
正慶2年/元弘3年(1333)5月8日に上野国新田庄の生品神社で挙兵した新田義貞は、小手指ヶ原の戦い、久米川の戦い、分倍河原の戦いで鎌倉幕府軍を打ち破り、5月18日、鎌倉攻撃に着手します。その時に利用した鎌倉上の道が鶴間付近を通り、このあたりでも戦闘があったと伝わります。
市指定重要文化財の旧小倉家住宅の母屋と土蔵が復元されています。母屋は安政3年(1856)に建築された、商家建築として県内でも数少ない貴重な建造物です。平成7年の解体建築を行っていたときに、座敷床板の裏側に書かれた落書きに「安政三年」の年紀があったことや建築の構造手法から当時の建築物と判断されました。
下鶴間宿は近世大山道(矢倉沢往還)の宿駅として機能しました。江戸時代には伊能忠敬の測量隊がこの地に宿泊し、測量を実施したと伝わります。また、幕末にはイギリス人外交官アーネスト・サトウも観光に訪れました。
また、同時に八王子道・滝山街道との結節地でもあり、戦国時代には小田原北条氏が玉縄城~滝山城を結ぶ重要な軍事ルートでした。明治初期には糸繭と米穀を扱う市場も
開かれていました。
まんじゅう屋は渡辺崋山が大山道を旅した際、下鶴間宿で宿泊した宿で、渡辺崋山の「游相日記」に紹介されています。
崋山は三河田原藩の家老になる1年前、藩主三宅康友の側室だったお銀様の消息を尋ねる旅に出ました。その時の様子を書き記したのが「游相日記」です。
御祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)で大国主命の第二子。ご神体は、太刀を腰に差した木造男神立像です。
神社には明治19年(1886)に山岡鉄舟の署名と落款のある北辰一刀流の奉納額が掲げられています。
東西に矢倉沢往還、南北に滝山街道が交差する交通の要衝地で、下鶴間宿はこの辺りで終わり、神社の前には庚申塔があります。この先は山王原という草原で、漢方薬になる柴胡(さいこ)が群生していると「游相日記」に記されています。