5月15日(火)・25日(金)小栗上野介と横須賀製鉄所(終了しました)
日米修好通商条約批准書交換のため渡米した小栗上野介は、ワシントンで海軍造船所を見学し、進んだ技術を見て日本との余りの格差に衝撃を受け、日本でも近代的造船所建設の必要性を痛感しました。
帰国後、小栗は造船所建設のために奔走し、反対にあったが建設に着工しました。しかし、その完成を見ることなく、薩長軍(新政府軍)に罪なくして斬首されました。
明治時代には、賊軍とされ、小栗の偉大な功績は一切評価されることはありませんでした。
激動の時代に小栗上野介は、先見性と確固とした意志で、日本の近代化を図りました。小栗の夢の跡を訪ねます。
日本海軍の軍港であった横須賀港への輸送を目的として、明治22年(1889)6月に大船―横須賀間が開通した。円覚寺境内を横切り、若宮大路の段葛を壊して敷設するなど、軍事優先で強引な工事が行われた。
明治33年(1900)につくられた『鉄道唱歌東海道編』には、支線としては横須賀線だけが歌われている。
横須賀駅は階段がない駅として有名であるが、これは物資の積み下ろしが容易であることと、天皇行幸の際に、上から見下ろさないようにするためとの説がある。
横須賀製鉄所を建設したフランス人技師フランソワ・レオンス・ヴェルニーの功績と、横須賀製鉄所建設の意義を伝えるために、平成14年(2002)にオープンした。
建物はヴェルニーゆかりのフランス西部のブルターニュ地方の民家の特徴である屋根に突き出た煙突と、急こう配の屋根などを取り入れている。
横須賀製鉄所(造船所)で使われていた0.5トンと3トンのスチームハンマーと、横須賀製鉄所(海軍工廠)で建造された戦艦陸奥の模型が展示されている。スチームハンマーは1865年にオランダで製造され、翌年に輸入された。0.5トンは昭和46年(1971)まで、3トンは平成8年(1996)まで使われていた。国の重要文化財に指定されている。
排水量39,050トン。長門型戦艦の2番艦として、横須賀海軍工廠で大正9年(1920)に建造された。当時は世界で7隻しかない40cm砲搭載艦で、世界7大戦艦と呼ばれた。長門とともに交互に連合艦隊旗艦の任にあたった。昭和18年(1943)に原因不明の爆発事故により瀬戸内海で沈没した。昭和45年(1970)に主砲や主砲塔、菊の紋章などが回収された。主砲は船の科学館に展示されていたが、平成28年に横須賀に里帰りし、ヴェルニー公園に展示された。
旧海軍横須賀軍港逸見門の衛兵詰所で、左右に2棟ある。高さ4mで、屋根はドーム型。本体は八角形のコンクリート造りでタイル張。造られたのは明治末期から大正初期と推定される。
小栗上野介は外国奉行、勘定奉行、江戸町奉行、軍艦奉行などの幕府の要職を歴任し、造船所建設の必要性を訴えた。反対されたが、小栗は執拗に訴え続けて認められた。栗本鋤雲の仲介により、元治元年(1864)フランス公使ロッシュに製鉄所建設を依頼し、慶応元年(1865)にヴェルニーの指導により横須賀製鉄所建設工事が始まった。
慶応4年(1868)1月、江戸城で評定が行われ、小栗や榎本武揚、水野忠徳、大鳥圭介らは、薩長軍と徹底抗戦を主張し、徳川慶喜に決断を求めたが、慶喜はこれに応えず退席してしまった。小栗は全ての役職を罷免された。同年2月に小栗は領地である上野国群馬郡權田村(現・群馬県高崎市倉渕町權田)に移り住んだが、4月5日に薩長軍(東山道総督府軍)に捕えられ、何の取り調べもなく、翌日朝に烏川の河原で斬首された。
処刑された河原には、昭和7年(1932)に同志社大学法学部教授蜷川新の書による『偉人小栗上野介 罪なくして此所に斬らる』と刻まれた慰霊碑が、地元有志により建てられた。
小栗は製鉄所以外にも、日本で最初の株式会社「兵庫商社」を設立している。これは外国商人に貿易の利益を独占されていたのを改革するために、鴻池善右衛門や加島屋久右衛門・米屋平右衛門などの出資で、利益は出資金に応じて配当するというものであった。その他にも江戸・横浜間の鉄道建設や新聞発行、電信事業、郵便制度、洋式陸軍制度、商工会議所制度など、後に明治政府によって実現された構想を持っていた。
ヴェルニーはフランスのマルセーユとリヨンの中間にあるオブナで1837年12月に生まれた。1856年にパリにある高等技術者養成学校であるエコール・ポリテクニクに入学し、1858年には海軍造船大学校に進んだ。25歳で2等造船技師の資格を取り、ブルターニュ半島にあるブレスト海軍工廠で造船技師として働いた。この縁で、横須賀市とブレスト市は姉妹都市となっている。
1862年に中国寧波の造船所で造船技術を教え、1864年に任務が終わり、フランスへ帰国するときに、日本での任務が命令され、日本に赴任する。
ヴェルニーが立てた計画に基づき、フランス公使ロッシュは日本と横須賀製鉄所建設の契約を取り交わし、慶応元年(1865)9月に工事が着工された。ヴェルニーは当初の建設費予算240万ドルを、177万ドルまで削減した。
ヴェルニーは約10年間におよぶ勤務を終え、フランスに帰国した。帰国するときに「近い将来、日本に創設した造船所が成功し、その名声を万国に示すことができれば、私のもっとも喜びとするところである」と語っている。
幕府の典医であった喜多村塊園の三男として、文政5年(1822)に生まれた。安積艮斎の塾を経て昌平坂学問所に入学し、優秀な成績を納める。嘉永元年(1848)奥医師である栗本家の家督を継ぎ、奥詰医師となる。
奥詰医師として不行き届きがあり、謹慎処分となり、箱館奉行所に左遷された。箱館でフランス人宣教師カションと知り合い、フランス語やフランスの政治や社会情勢などを学んだ。栗本は箱館での功績が認められ、江戸に戻り、外国奉行や勘定奉行などを歴任した。元治元年(1864)小栗上野介と再会し、小栗の造船所建設の熱意を聞き、フランス公使ロッシュを小栗に紹介した。
在日アメリカ軍横須賀基地内には6基のドライドックがある。1号ドックは慶応3年(1867)3月に着工された。翌年には徳川幕府が消滅したが、ドックの建設は明治政府に引き継がれ、明治4年(1871)に完成した。当初の計画では全長115mであったが、124mに変更された。真鶴産の小松石が使われている。
旧海軍の下士官兵集会所であったが、昭和20年に接収され、EMクラブとなった。Enlisted Men’s Clubのことで、米軍の各キャンプ地にあったが、横須賀EMクラブが最大で、EMクラブといえば横須賀のEMクラブをさすほどであった。
劇場や映画館、ビアホール、図書館、ハンドボールやバスケットボールのコート、レスリングやボクシングのリングなどが完備し、1万本のビールが冷やせる冷蔵庫もあった。
劇場のステージでは、フランク・シナトラやディーン・マーチン、ルイ・アームストロングなどのショーが行われた。原信夫や江利チエミなどもこのステージから巣立っていった。建物は平成2年に撤去され、横須賀芸術劇場が建てられた。
横須賀は横浜や神戸とともに日本のジャズ発祥の地といわれ、京急横須賀中央駅前の通りにはジャズを演奏している人形が設置されている。
明治時代には道の中央をドブ川が流れていた。海軍工廠から調達した鉄板でふたをしたことからどぶ板通りと呼ばれた。昭和20年までは横須賀鎮守府の門前町として、戦後は米軍横須賀基地を控えて賑わった。
米軍兵士向けの土産品を売る店ができ、スーベニアショップと呼ばれた。昭和22年創業のプリンス商会は、スカジャン発祥といわれる。米軍兵士から傷んだスタジアムジャンパーの修理を頼まれ、ついでに刺繍をしてあげたのが評判となり、多くの兵士が来店するようになった。パラシュートのシルク生地でジャンパーを作ったのが、スカジャンの始まりといわれる。
ドブ板通りの路面には、雪村いづみ・ジョージ川口・宇崎竜童などのミュージシャンや横須賀ゆかりの有名人の手形のレリーフが埋め込まれている。
横須賀製鉄所のフランス人技師のために、慶応2年(1866)に建てられた聖ルイ協会が始まり。当時はキリスト教禁止令が出ていた時代で、日本人には布教活動をしないという条件で設立された。明治13年(1880)フランス人技師が帰国したため閉鎖されたが、明治16年(1883)に、中里町に移転再建され、昭和23年に現在地に移転した。
薩摩(鹿児島県)出身で、薩英戦争や戊辰戦争に従軍している。
日露戦争で、連合艦隊司令長官として旗艦「三笠」で指揮をとり、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊に勝利した。
明治45年(1912)夏、東郷は自宅に小栗上野介の娘婿の小栗貞雄とその子の又一を招き、日本海海戦で勝利することができたのは、小栗上野介殿が横須賀造船所を造っておいてくれたおかげと、感謝の意を伝え、『仁義禮智信 壬子夏為 小栗又一君 東郷書』と書いた自筆の書を贈った。この書は小栗の墓がある高崎市の東善寺にある。
大正4年(1915)9月に行われた横須賀海軍工廠創立50周年式典で、大隈重信首相は小栗上野介を横須賀開港の大恩人として称賛した。これにより、賊軍として顧みられることがなかった小栗が見直されるきっかけとなり、大正11年(1922)にヴェルニーの像とともに胸像が建てられた。
大隈重信は「小栗は謀殺される運命にあった。なぜなら明治政府の近代化政策は、小栗の構想を模倣したものであるから」とも述べている。
司馬遼太郎は、小栗のことを「明治の父」といっている。
東京湾に浮かぶ無人島で、自然島では東京湾で最大。縄文時代や弥生時代の石器や土器が出土している。明治時代には、砲台が造られ、要塞の島であり、一般人の立ち入りは禁止されていた。実戦で使われたことはないが、岸壁を掘って煉瓦で覆われた要塞跡が残っている。ガイドツアーもあり、見学することができる。