2022年5月11日(水)・5月17日(木)           鎌倉街道下の道④菊名~三ッ沢上町(終了しました。)

 

鎌倉街道「下の道」の4回目です。今回は横浜市港北区から神奈川区に入ります。このコースの特徴は、きつい坂や、ゆるい坂など緩急はあるものの、アップダウンが何回もあることです。しかし、そのような中でも、田園の雰囲気や、左右の展望が広がる気持ちの良い散策の道が現れるなど、「あと一歩前へ‼」と奮い立たせてくれる行程です。さて、歴史を学ぶことの楽しみの一つに「見えないものを見る」ことがあると言われます。いま目の前にあるものは誰にでも見ることができますが、すでに無くなったものでも、実際に作られなかったものでも、想像力を働かせれば、あたかも目の前に存在するかの如くに知ることができる、との意見です。今回のルートはまさにそれを実感できる道筋かと思います。住宅やマンションの開発、道路の拡張などで、古道が途切れたかと思うと、また現れるなど新旧の道が複雑に交わる中に、六角橋に伝わる伝承や神大寺などの地名に、歴史の厚みを感じることが出来るでしょう。また、篠原八幡宮の設計思想などに、昔の人々の信仰の一端を見ることができます。名所旧跡は少ないものの、“いざ鎌倉へ‼”と、ひた走る鎌倉武士を想像しながら歩みを進めましょう。

  《コース紹介動画》    https://youtu.be/pJxsYYyUrf4

 

プロローグ

 

菊名駅から急坂を上ると、住宅の切れ間から中世山城の篠原城址と新横浜方面の展望が開けてきます。左側、はるか奥のビルの後方には小机城址が屹立しているはずです。ここは太田道灌や小田原北条氏の軍勢が疾駆していた、あの戦国乱世の世を想起できる格好のロケーションです。

       【菊名駅でのコース紹介】                      【新横浜方面の眺望】

 

 

1.篠原八幡神社

祭神は誉田別命。建久31192)年、鈴木村(現篠原町)の鎮守として同村の会下谷(えげやと)に創建、鶴崎八幡と称していましたが、江戸時代の寛永81631)年に表谷(おもてやと、現在地)に遷(うつ)りました。現在の社殿は天保61835)年の築。八幡造りで、冬至の頃は、朝日が社殿の御鏡に差し込むよう設計されています。2011年「詩でたどる日本神社百選」に選定されました。

 

篠原の地名の由来は、植物のシノダケが生えていた原。また、寿永21183)年、加賀国篠原で平盛と木曽義仲が戦い、盛の家来の残党が逃げてきて作った村、などの説があります。

        【鳥居】                   【社殿】             【境内内にある石仏群】

 

 

2.大塚(大塚金剛神)

 

風土記稿に「大塚 村の東畑の中にあり 高1丈許鋪径4間許」とあるが、由緒については「古塚なれど、何人の塚なる事は今より考ふべからず」と記され、詳しいことは分かりません。また、この塚には「村人の夢に、塚から鎧武者が現れ食べ物を乞うた。翌日供養すると、今度は夢に元気な武士が現れ、礼を言った」との伝えがあり、そこで村民が塚を清掃し大塚金剛神の碑を立て、供養を続けることとなったと言われています。

          【碑は雑草の中】                         【このようにありました】

 

 

3.岸根公園

 

昭和15年に運動公園として計画されましたが、第2次世界大戦により旧陸軍高射砲陣地になりました。戦後、米軍の接収対象となり、昭和304月には兵舎(岸根基地)が建設されました。昭和40年、ベトナム戦争の拡大により用途が変更され、陸軍総合病院として傷病兵の治療施設になりました。戦争終結により昭和478月全面返還。以降、現在のような総合運動場を兼ねた都市公園となりました。総面積は約14ha42,600坪)。篠原池は、農業用ため池で、かつては篠原町から新横浜方面にかけての農地(耕地)に用水を供給していました。昭和56~7年に池の東側半分を埋め立て神奈川県立武道館が建設されました。

        【入口にて】              【公園内で】           【ユリの木の花が咲いてました】

 

 

 

街道沿いの一面の畑
街道沿いの一面の畑

鎌倉街道下の道

何気ない畑の中の道ですが、この付近について、地元では次のように伝えられています。

 

「このあたりが、今のような住宅地になる前、神大寺小学校の西側を通り、水道道にそって篠原町の方につづく細い道があった。今でも、家々の間に切れたり続いたりして残っているのが分かる。この道は、鎌倉道の下の道だと伝えられている。鎌倉道は鎌倉時代にできた道で、武士たちや軍勢が通るための軍用道路。当時は2mたらずの道幅だったそうだ。1333年に新田義貞の軍が進んだ道、1352年に足利尊氏が南朝方と神奈川の城で戦ったときなどに、通った道だと伝えられている。」と。

 

 

4.日枝神社

 

祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)。創建年代不明。風土記稿には「この村の鎮守にして村民の持なり鎮座の年代を伝えず」と記されています。社殿は慶応21866)年造。手水鉢は明治245月造。狛犬は明治40年造。子犬がじゃれて親犬の手をかじっている珍しいものです。

          【鳥居】                         【社殿】

 

 

5.塩なめ地蔵

 

4体ほどの石地蔵。昔から、この地蔵をお参りすると、いぼや怪我・病気が治るというので、遠くからお参りにくる人も多かったようです。怪我や病気が治った時は、塩を地蔵にお供えしてお礼参りすることになっていたとのことです。江戸時代から塩をかけられているので、造形がはっきりしません。前の道が六角橋から小机に抜ける八王子往還道の脇道。この付近に「神大寺」があったと伝えられます。

         【塩をお供えしました】             【残念ながら周りには近所の工事用のブルーシート】

 

 道灌森はこの辺り

「下の道」が通る六角橋・神大寺には、太田道灌に関する伝承が幾つか残っています。彼は文明101478)年2月の小机城攻めの時、この辺りを何度も通り、農民たちを足軽の軍団としてまとめ上げ、活躍させたと伝えられています。また、彼が陣をしいた場所は、南神大寺団地のあたりで「道灌森」と呼ばれています。団地が開発される昭和48年ころまでは、森林地帯で谷間から清水が湧いていて、道灌は将兵にこの清水を飲ませたそうです。さらに、六角橋中学の南側の丘あたりは、戦いに敗れた(敵の)長尾景春の家来達をはりつけにした場所で、刑付原(はりつけはら)との伝えがあります。

 

    【道灌森の遠景(中央)】                     【道灌森の近景】              【刑付原辺り】

 

 

 

 

6.宝秀寺

 

久応山摂取院。浄土宗。かつて大伴久応(おおとものきゅうおう)が庵をむすんでいた所で、日本武尊が泊まり、持参した六角の箸で食事をした後、その箸を久応に授けたといわれます。以来、この村を六角箸村といったが、後に六角橋村に改めたとされます。鎌倉時代は宝秀院と称し、戦国時代に無住になった時には、小田原北条氏の忍者が利用していたと伝えます。天正年間、達道が来て開山。本尊は阿弥陀如来。門前脇に「大伴久應之墳」の石碑が立っています。

            【宝秀寺】                            【大伴久應之墳

 

 

お疲れさまでした。